日常。

トップエントリに入っていた「ゲーセンで云々」の話がバトルになっているらしい。
わたしは読んでないんだよな、、「泣ける!」と言われて、絶対「泣けない」自分を知っているから。(涙)
一杯のかけそば」も、「3人で外食するなら、そのお金で3人分の麺が買えるだろー!」と突っ込んでしまったし。
当時、職場で「いい話だからね、、」と涙ぐんだ目で本を貸されて、それを貸してくれて「いい話だ」というひとの心の優しさに私は泣けた。
私にはないものを持っているんだなあ、と。私はこの手の話に泣けない人間だが、泣ける人のことは好きだったりする、私にはない「才能」を持つのだもの。
「騙されるのにも才能が必要」と、そして「人は騙されたいものに騙される」、そういうことかな?
ちなみに、私と同じ感想を抱いた人間と私は結婚してしまったわ、、、(遠い目)
その当時に出会ったが、話には一切でなくて、つい最近娘に「一杯のかけそば、ッてなに?」とたずねられ、同じ感想を抱いたことを知った。
ちっ、心の黒いヤツだぜ、お互い様だが。
先日「フランダースの犬」の裏話を読んで、それが「救われない話」とあって、ハテ、何故「お話」に「救い」を求めるのか不思議でしょうがない。
いい歳の大人が何故、お話に「癒し」を求めるのか、「現実」の身も蓋もなさの方が私には面白いのだけれどもね。
「救い」だの「癒し」だの、そういうものを一切求めない私にはある種の「才能」が欠けているのだろう、
それが「いい」のか「悪い」のか、本人的には特に困ったこともないので、
(なぜなら「一杯のかけそば」を貸してくれた人にも「とってもいい話でした、泣いちゃいましたー」とペラッといえる人間なので。ある意味、本当に「泣いた」し。)
人は言って欲しいことを言われたい、聞きたいことを聞きたい、それがわかっていれば、まあ、いいんじゃないか、と思うのでした。
ある程度の社会性のある悪人は、本当に始末に負えないわねえ、、、今日は久々に血液検査以外のお出かけ。いってきます。