西から、東へ。

上の娘が電話で「みんな、びっくりするぐらい、ものの値段を知らない」「大学の授業料のこととか、いろいろ、全然、知らないの」と話す。
「それに、「それ、なんぼ?」の言葉も知らない」って、そりゃ、知らんわ、関西方面に住む人間は息するように使う言葉だけどね。
上の子は「みんな中高一貫の私立校育ちだからものの値段を知らないんだと思う」と主張するが、おそらくは「西」と「東」の「文化」の違いなんだよね、
「西」ではものの値段を「知っている」と言うことは「美徳」、知らない方が「世間知らずで恥ずかしい」なんだけれど
おそらく「東」では「お金の話なんかするのは、恥ずかしい」と、「恥ずかしい」の尺度が違う。
娘はよく、お友達がかわいいもの、新しいものを持っていると、つい「なんぼしたん?」と聞いてしまうそうなんだが、それをすると「ひかれる」らしく「調子が狂う」と、
上方文化エリアにいる人間にとって「かわいいやん、なんぼしたん?」と聞くのは「礼儀」も同然で、
つまり「私も同じものが欲しくなるくらい、かわいいものを持っているね」という「誉め」言葉。
また、相手が答えた値段によって「安くていい買い物をしたね」とか、「おおっ、高いもん、持ってるじゃん、さっすがー!」とかが、
「これ、なんぼ?」には含まれている。
この微妙さは関東での言葉「いくらしたの?」では伝わらない、
「おいくら?」ではどこか高飛車だし「いくらしたの?」では、なんだか相手を責めているような、「なんぼ?」ってあらためて、かわいくて便利なことばだよなあ、としみじみ。
コミュニケーションの取り方が違うんだな。
しかし「武士は食わねど高楊枝」な時代じゃないんだから、もうちょっと「お金」の話をしてもいいんじゃないか、
というか、東は「お金」というものをあまりにも「汚いもの」として見過ぎてるんじゃないか、「西」ではそれほどでもないんだよなあ、
あってもなくても「当たり前のもの」でしかないから、むしろ西の人間の方が東の人間が思うより遙かに金勘定にあっさりしているように思う。
お金はただの「数」であるという乾いた感覚を持っているんだが、
やはり「なんぼ?」と聞く習慣を「お金のことばっかり聞く、嫌らしい!」と思う人もいるだろうし、娘よ、苦労するね、とひそかに涙。
それでも、きっとわかってくれる人もいるだろうから、これからも頑張るんだよ、
とりあえず、「これなんぼしたん?」文化が東に広がって欲しい、と考える母であった。
しかし、子どもに自分の通う大学の授業料とか、その振り込み時期とか、自宅がよいであっても教えておけよ、とぶつぶつ。
金勘定は一生するんだから、値段の確認は息するようにやっておかなくっちゃ、ね。