ネット雑記。

ふと、おなじみシロクマ先生のエントリを読んで、
しょっちゅうよその親に「こうすると子どもがああなる、こうなる」とか言ってる親の子どもはどんな大人に育つんだろう、と考える。
シロクマ先生のようになるかな?
なら、結構なことじゃないの、ネットでああだこうだとよく知りもしない他人のことをごちゃごちゃ書いて、人生、楽しそうよ。
他人の悪口しか言わない親の子どもは尊敬を学ぶことはない、のが本当かどうか、本当に他人の悪口しか言わない人っているかな?
他人の悪口をよく言う人は、同じく熱狂的に好きなものを褒めちぎっていたりするんだよね、
問題はこの感情の起伏をどう子どもが受け止めるかで、それなりにマイルドに受け止めるようになるんじゃないのかな、思春期以後は。
つか、あんまり親に興味を覚えなくなる、と言うか、子どもの成長とは、「親をあきらめる」なんだと思うなあ、私は少なくともそうだった。
自分の子どもたちもそうなんじゃないかな、と期待しているとか書くと、
「自分と自分の子どもを同一視している!」とでもつっこまれそうだが、
自己の確立や自分発見って、何かをあきらめることからはじまるんじゃないかな。
「親がこうだから子どももこう!」という思いこみは、大人になってしまった人間の首をも絞める言説だと私は好きになれないな。
それが本当なら、もう「あきらめる」ところからしか、何かを始めることが出来なくなる、
で、私はその言説にさりげなく寄り添って「あきらめる」と書くんだけれど。
先日読んだ「サはサイエンスのサ S is for science 鹿野司早川書房)」の第2章「ココロを変えるサイエンス」にこんなくだりがある。
(以下引用 「超越者のありかた」p92)
〜例えば、神経症の人や幼児虐待をする人、犯罪者ってのは、親の育て方が悪いからって考え方があるよね。
 虐待を行う人は、自身が幼い頃虐待の経験がある、なんてこともよく言われる話だ。 
 でも、この理由付けには、ホントは根拠はなくて、一つの物語に過ぎない。だって、これに当てはまらないケースはいくらでもあるんだから。
 幼い頃に親から虐待を受けた人が、自分の子どもに必ず虐待をするかというと、そんなことはありえない。
 逆に、なんの問題もない家庭に育ったからと言って、犯罪者にならないわけでもない。
 つまり、子どもの不幸は親の育て方が悪いから起きるという主張には、客観的な因果関係はないんだよね。〜
このあとも引用したいものの、時間がないので、略。でも、いつか、メモっておく。
シロクマ先生の書いていることは「修身の主張」であって、それに「科学風味」をまぶすのはどうかと思う、
つか、この人は本当に理系の科学者なのかどうか、私としては大いに怪しんでいるんだけれど、どうなのかしらね。
「とんでも科学」の主張が紛らわしいのは、その主張が「道徳律」を取り入れているせいだ、と言われていて、
その手法を、仮にも自分は精神科関係のプロフェッショナルだ!を自称する人がつかっていいものかどうか、
まあ、私がシロクマ先生に「道徳」を説いても仕方がないんで、このあたりにしておくけれど、
要は、「子どもはこうなる!ああなる!」的な言説を用いるのはいい加減にしなさい、と言うことで、
親が先生の悪口を言うことは確かにいい大人としてどうかと思うけれど、子どもに尊敬心が育ちにくくなるかも、なんてのは
どのような受け止め方をされる可能性があるか、もうちょっと考えてから書きましょうね。
私の場合、子どもが先生の悪口を言ったとき、同調することもあれば、そんなことは言わない方がいい、と言うこともあり、
積極的に先生の悪口を言うことはなかったけれど、子どもがあとになって、自分が嫌っていたことを忘れて「ママが嫌いだったね」なんて
見事に自分が言い出したことを記憶から浄化していたりして、子どもって、そんなものなのよ、結構、がっくり来るわ。
先生の悪口を言ってる子どもに「そんなこと言うもんじゃない!」と叱ると、もう何があったか話してくれなくなる場合もあるんだし、
「ケースバイケース」、その視点がシロクマ先生のエントリには欠けているんだよなあ。
「親がこうなら、子どももこう」なんて、非科学的な言説はどうにかしましょうね、ってことで。
しばらく(10日ほど)、日記の更新は滞ります。