雑記。

福岡の事件は悲しい結末となってしまったなあ。
持っていた携帯ストラップで首を絞められていたと聞いて、ひょっとして子供がいたずらで引っ張った事故か?とも思ったが
母親が逮捕されて、私は今でも何らかの「事故」を気が動転して隠蔽をはかったと考えたい。
小学生まで育て上げた我が子に何故?と不思議だけれど、小学生になったからこその焦りがあったのかも、と指摘されているのを見てなるほど、と。
いくら「ゆとり教育」なんて言われても小学校では「お勉強」要素が入ってくるからね、多少の「能力差」は出てくる。
これは許容範囲なのかどうか、新米ママはわかりにくいだろう、「学校の勉強なんて簡単!」と言うのが今の通説になってるし。
「小学2年の算数が意外に難しい」の話題を見かけて、こういうことをもっと書いてくれなくちゃ、と思う。
(最近の教育系雑誌にはもう書いているか?)
親世代には不慣れな考え方で教わっていることってあるんだよね、それも親の「焦り」につながるかな。
小学校低学年のうちは「とりあえずいやがらずに学校に行ってくれれば」とボーダーラインを低くしておいた方がいいような。
うちの下の子は低学年時、常に「授業中に最後まで出来なかったことをちゃんとやりあげよう」の「居残りワーストスリー」の中に入っていて、
とほほだったが、今考えてみれば、「自分のことは自分で考えてやろう!」「大自然でのびのびと!」と
山の中にある園内を靴を履かずに走り回るちょっと変わった無認可の幼稚園に通っていたので
そこの独特な生活「スタイル」が身につきすぎていて、「何故、先生の言ったとおりのやり方しか駄目なの?」
「他にもっといい方法もあるじゃないか」と本人は思っていたようだ。
ずっと裸足で土の上を歩いていたので、まず、「靴下」と「靴」がはけなかったりして。(はけるけど、すぐ脱ぎたがる)
「なんでみんなはこんな窮屈なものを平気ではけるんだろう?」から始めなくちゃいけなかったんだよなあ。
それから6年以上経って中学生になり、今も靴下をすぐ脱ぐくせがぬけないが、ま、何とかなっている。
人生の目標は「長生きしよう」だ、子供のことでも「駄目なものは駄目」とある程度はあきらめないと追い詰められる。
報道は母親に同情的である考え方がまた、障壁を持つ子供への差別的目線では、の意見もネットで読んで、考えさせられた。
どういう状態であろうと、親が子供に手をかけるのは許されないことだ。
でも追い詰められる母親の心は現実に親をやっている人間としては理解できる。子供が犠牲者の事件は本当にやりきれない。
千葉の小さな女の子に手をかけたのは誰だろう。
類似事件の犯人が捕まっていないのを思い出すと今回こそは!と期待する。