色々考えてみる。

あんまり考えたくないんで考えたことがなかったけれど、「死刑制度反対」派の人のコメント欄などで、
「あなたが自分の大切な人を失ったらどうですか?」という揶揄をふくんだ言葉を見かけて不本意ながら考えてみた。
よくよく考えると、私はやはり犯人の死を望むことはないと思う。
私の大切な人の死とその原因をつくった人間の死とを関連させたくない、勝手に生きて、勝手に死んで欲しい、と思う、
2度と私たちに関わりを持つな、とその権利だけを確保しておきたい、それから相手を許すこともない、決して。
相手が死んだところで、大切な人は帰ってこない、このことだけは確実なのだから、逮捕される以上のことは望まない。
自分とは別の存在をかけがえなく思うとは、自分を作り上げる根源と相手を位置づけることで、
その存在が失われることで自分の一部も失われるのだ。
その欠落を、他人を安易に手にかけられるような人間の抹殺でうめることなど出来ない。
かけがえない、とは他にかわりがないと言うことだ、ましてや惨めな人間1人が死んだところでそれがあがなえた、と
周りから思われるのは、私のようにプライドの高い人間には耐えられない。
私は誰かのせいで大切な人を失ったときでも、「死刑反対」と言うことが出来る。
でもこれは私の考え方で他の人がどう思うかは人それぞれ、相手の死を望むのも遺族の「意見」としては「あり」だろう。
だから青学の評判の悪い先生と同じく、被害者のご家族が犯人の死を心から望んで、喜んでいるのなら
今回の光市の件も「よかった」と考えている。結局「遺族感情」なんて他人にわかるわけがない。
ただむき出しの感情が勝つ時代なんだという気がした、拉致被害者もしかり、「感情」を押し立てさえすれば何でも通る、らしい。
感情はあくまで感情だ、感情に過ぎない、そしてそれはきわめて個人的なもので、私は誰にもそれを犯されたくない、
感情を自分だけのものにしておきたいから、大切な人を失ったとしてもその感情を量刑に関わらせたくない、
この感覚もまた、「感情」の一部だ。個人主義的、と言うことになるのかな?私の感情は私だけのものである、
と、まあそういうことなんだろう。他人に「わかりますよ、、」なんて言われたくない。
「犯罪者にかけがえのない存在を奪ったことをわからせる」、例えそれが相手にわかったところで私にはなんの関わりもない、
わかったとして「何?」と私は言うだろう、大切な人を失うとはそれほど深い絶望だ。
「悲しい」以上の「虚無」、そういうことを時々私は考える。そういう年になったと言うことか。
子供時代に愛読した鈴木力衛訳の「ダルタニャン物語」を読み直そうと実家から持って帰ってきていて、
そういえば、この物語の第一部の終わりに登場人物がある意味「私刑」になったことが後々まで物語の中でつながっていく、
大衆作家であった大デュマも「死刑」というものにそれなりの考えがあったんだろう、と今更ながらに思い出す。
「因果応報」、あの物語の中でもそうなんだからなあ、、人間はそれから少しは進歩したのかな。
ディケンズもまた、「死刑」に懐疑的な部分もあったな、死刑是非論争はいつまでも終わらないと言うことなのかな。