「産む機械」の失言?

知人の親が亡くなる年になりました、まあ、そんなもんなんでしょうが。
おつきあいでどこまでの人に香典の声をかけるか、いくらくらいが妥当なのか、あれこれ。
今回、ビミョーなおつきあいの人でもあるし、また周りもビミョーな距離なんでちょっと複雑。
結婚式に出席するとかはわりにお気楽なんだけど葬式となると「失敗は許されない」になる。
私の場合、「私」が失敗する、ではなくむしろ私の後ろにあるものが「失敗である」と見なされるんで、やれやれ。
「とりあえずあそこまででこういう事で」と話しが出来て終わる。なにかがあるのはまたその後なんで。
さて「メカ」柳沢が、「健全」な人間のありかたを示してくださいましたね。誠に有り難いものです。
この度「失言」製造「装置」は実に「正しく」作動してみせたようなので美しい日本に住む
「寛容」な日本国民はこの先、「メカ」柳沢が「若い人は結婚をするのが当たり前、子供は二人で
男と女をひとりづつ産むのが当たり前」なんて言っても見逃さなければなりませんね。
「日本の男が機械のように働いてかせがないから女が子供を産んでくれない」というのも
「メカ」柳沢に「製造」してもらわなければね。「失言」を「許さない」なんて、
「不寛容」な「人間」がする事ですもの、ええ、「失言」製造「装置」のする事に文句は言ってはいけませんね、
産む機械」も「産ませる機械」も。
「産ませる機械」がぽんこつだ、なんてのも、単なる「文脈上」の「表現手段」ですから、
機械好きの男性方は当然お怒りにならないものだと思います。
本当に「失言」と見なせば全て「許されなければ」いけませんね。
こういう「大した事ないのをいつまでも」ってのが「いじめ」のなくならない原因だろうね。
「そんなのたいしたことじゃないだろう?」って言う側、或いはいじめられた本人以外の人間は言うんだよな、
「そんな事気にする方がおかしい」って。それで言われた側は我慢を強いられる事になる、
その発言に「痛い」となる方がおかしい、と。いじめ自殺した子供にもそういう目が注がれるよな、
「何も死ななくても、、」って、言ってる側はお気楽だ。私だってそうだ、
「そんな事を気にするべきじゃないよ」って、でもそれは誰かがきめる事ではない、
ましてや、「単なる失言」と許される事が「前提」となり許さない人間は「不寛容」と、
そう、これも天下無敵のネット言葉「レッテルを貼る」を持ち出せば、全て解決。
「そういう事を言うのは「レッテル張り」だ!」ってああ、「自己批判!」って昔はやった言葉があったね、
もう、これさえ言っとけば大丈夫、みたいな。
「それとこれとは別」と言っても、それは個人の「主観」の相違だから、いつまでも終わらない話しになる。
教育基本法改悪反対!なんて言ってても基本的人権の侵害の意味もわかっていない、
共謀罪反対にしても、痴漢冤罪にしても、結局それは「スタイル」だよね。
「メカ」柳沢はこの度なにを言っても「失言」として「許される」存在になったようなんで、
「寛容」な皆さん、彼がなにを言っても全て受け入れなさいね。
「寛容」と言う言葉で飾られて、「人間」としての尊厳が崩れていくかけらを見逃した人達は、
細木和子や江原ナントカに騙されるトンデモ達を笑えない。
そんな意識がないから、ネットやってるのかもしれないけどね。
マ、女の子を二人しか産んでない、ぽんこつな「産む機械」の「失言」だから「寛容」に見逃してくれるでしょう。
そうそう、「男」を製造しないと今でも、女は「ぽんこつ扱い」だって知ってる?
それだって「失言」として許してますよ、私は。「寛容」ですから。