ふと。

先日親を亡くした知人は、厳密に言えば「友達」とは言えない、とあるゆるいサークルの中で
ぼんやりとしたかたまりの隣り合わせにいるような、でもあえばよくはなしをする、
「私はあなたの敵ではありません」光線をいつもお互い投げかけあってるような微妙な関係で、
このあいだ会った時、何か言いたげだったのに時間がとれなくておしゃべりに付き合えなかった事を
ちょっと後悔している。奥床しい人なので、話したい事があっても、あれ、いつもと違うかも、
なネタをふってきて、なんだろうなー、と思ってたらなにげにものすごい秘密(?)をサラッと言ったりして、
ああ、そうだったの、と思う。年は私より少し下で、結婚は長いけどお子さんはいない。
ちょこっと奥様系のお仕事をされているのでばたばたして産み時を逸しちゃったかな、くらいにしか
思ってなかったんだけど、ふとこの人にしてはハイテンションな話しの内容だな、と思う事をしゃべったあと
「私、子供が出来ない体なんです、でも主人はそれを許してくれました。とても嬉しかった」
といきなり言われて、「そうなの、よかったね」とだけ言った事がある。
取り合えず戸惑ったりしない事がわかっているから話すのかな、と自分に都合のいい事を考えたりして。
もっと近しい人には言えなくても少し距離のある人には何気なく言える、そういう感じだと私は受け止めていて、
今回親御さんを亡くされる前にもきっと、淡々と話しがしたかったんじゃないのかな。
妹さんがお子さんを産んで「もう、あんな子供が子供なんか作って、信じられない!」と笑いながら
みんなで話して、「妹は子供が出来てからまるで動物みたいになってるの、なんだかこわい」とか、
明るく、「私、別に子供なんていらないのよね」の雰囲気、それでいいんだよ、
そういう「ポーズ」でみんな生きてる。
「許してもらって嬉しかった」の言葉がずっと心に残る。「許して」もらわなければ生きていけない、
子供を「産む」「産まない」でまだ女は「許し」を求めなきゃいけない、
「そういう体」である事、それは自分が悪いわけじゃないし、決して他人に許されるべきでもないのに、
今でも「許してほしい」と言わなければいけない、それを、みんなわかってるのかな。
「女」である意味は「子供を産む事」だと今でも大多数の女でさえ信じ込んでいて、
つらい不妊治療に泣きながら通う人を私は何人か知ってる。本当はしたくないけどしなきゃいけない、
旦那さんもまた気まずい治療を受けなきゃいけなくて、お互い、なんとなく重苦しい気分で、
二人の時間を過す(らしい)。
もう色んな治療がいやでいやで仕方がなくて、ようやく子供が出来た時、これでこんな治療をしないですむ、
と思って涙が出るほど嬉しかった、と告白した人もいる。「本当は子供が出来て嬉しい、って思うべきなんだけど」
と、また「罪悪感」、いいんだよ、それで、よくがんばったよね、と。やっと出来た子供は特別な子供で
幼稚園にはいったあとも他の子供とは別扱いされたくてたまらなくてトラブルを連発してしまった人や、
不妊治療をしてたことを隠したくて子供が出来たとたんそれまで相談した人間と
プツリと連絡を断ってしまう人もいたり。
「産む」行為が女にどれほどの負担であるか、「産ませる」側でわかってる人はそれほど多くないんじゃないか。
(ちなみに「産ませる」も「産む」を「許す」的傲慢が感じられて嫌いだ)
私は、人口子宮とか、そういうのもありだと思う。
代理出産の場合、「産む」側の生命にある程度のリスクがかかるからあまり賛成ではないけど、
人口子宮なら他の命とひきかえにしなくてすむだろうから、いい。
「産む」とか「産まない」とかが女の存在の「許し」に関わるのは私はやはり納得できない。
それでも私は自分が確実に3人目に男がうまれるように治療をうけてみないかと持ちかけられて、
断ってしまった事を、「許され」たかった。
無理強いされずにすんだ事や、あとでダーリンがものすごく怒ってくれた事に感謝する以上に
私の中のどこかでやってみるべきだと思うところもあって、友達に、
「本当はするべきなのかな」と言った時、「私が代わりに3人も産んでるから、女の子二人で十分」
と答えてくれて嬉しかった。私は「許してもらえた」気になった。
「許し」は人の心から自然に湧き出るものだ。「許される」ことも、ほんの偶然でしかない。
そういう一瞬が重なりあうのは簡単ではない。
「寛容」を他人に押し付ける人間は、本当に「寛容」の意味がわかっているんだろうか。
他人に「寛容」を説く人間は実は自分がもっとも「不寛容」である「事実」をわかってない。
「産む」ことはなし崩しに「女の仕事」と承認されて、よかったんだろうか。