言葉に力はありますか。(御挨拶?)

正月から書きもせずにお気に入りのところをだらだら読んで大変幸せだった私、、
やはり書くより読む方が好きだなあ、書く人の大抵はそうかもしれない。
ただで読むのは申し訳ないんで書く、ってことが多いかも、趣味の追求とか目的がある人以外はそんなもんかもね。
ただ読む行為も書く行為も実は狂気の裏返しと私は思うのでその方向で今年もだらだら書くかな。
読むと言えば今年は「丸山真男イヤー」と勝手に決めた。全集が図書館にあれば読む。
このあいだ、朝日新聞の書評欄にのってた丸山真男回顧録はぜひ読みたい。実は私の永遠のアイドルなのー、
丸山真男もえー(古い)、大昔に読んでこの人の言葉のリズムが好きになった。
同時期にいやいや小林秀雄を読んでたので、その反動なんかね、私の父親の文章が小林秀雄系で
高校時代、担任だった国語教師はそれがとても好きで、娘である私にも書かせようと無理させて、
ちなみにこの教師は自分の受け持ちのクラスの生徒に宿泊研修時、国旗の前で万歳三唱させるようなとんでもだった。
それでも私はブサヨク(?)に育ったんで、教育ってある意味無駄よねえ、、
小林秀雄もああも露骨にあれこれされなかったらそんなに嫌いじゃなかったろうな、強制はよろしくない。
好きな文章と言えば加賀乙彦福永武彦のような、自分には到底書けそうにない文章にあこがれる。
家中に本が積み重なる魔窟で育ったので教養はないけれど言葉がかもしだすものは何となくわかる気になっている。
言葉の底にあるもの、それが何をほのめかすか、そそのかすか、言葉に力があるとしたら
言葉そのものの意味よりむしろそこに強くあるんだろうと思う。
言葉は拘束力を持たないし本当言うとそれほど意味もない。
念頭から安倍総理が「美しい国作り」と連呼したところでこの国が美しくなるメドは全く立っていないし、
むしろ戦争を美化するかのような醜い国になるとあからさまになりはじめているようで、
それでいながら「美しい」と、つまり「美しい」が持つ意味の本質を変えてしまおうと国家ははかっているようだ。
まー、例えて言うならブスな子に繰り返し君は美しいと言ったところでやはりブスはブスだし
なんら顔かたちが変わるわけではないんで、でも繰り返し周りも本人も美しいと言ってるうちに
なんとなく美しいと思えて来るような、ああ、これって「洗脳」よねえ、北朝鮮の金君を素晴らしい指導者と
あがめ奉るようなそういう手法を日本もとるのだと繰り返し「美しい」と言ってくれてそれを
そのとおり「美しい」と思う素晴らしい国民が山ほどいるようで、本当よかったね、
この国は「美しい国」になるみたい、ああ素敵、素晴らしき言葉のマジック!それが言葉の力と言えば言葉の力、
でもそういう力に無反応な私のような輩はこの先、この呪詛めいたチンケな「美しい」言葉にどう対処していくのか、
丸山真男にでも教えてもらおうかな、なんて言いつつ、いくら加賀乙彦に心酔しようと福永武彦に耽溺しようと、
やはり全くその言葉が身についてない私は言葉に力なんてないな、と思うのであった。
(最近、金井美恵子の小説ばかり読んでいたのでした。)
要するに年明けからちっとも美しくない総理大臣のうわ言のような「美しい」を聞かされて、
アッキーが韓流にはまるのも無理ないわな、って思った。
(私界隈では韓流にはまる人は家庭生活が相当イタイが定説となっております。)
「ああ、美しい、にーほーんーのーはーたーはー」と急に歌い出したくなる。いやはや。
ダーリンが「休み過ぎ」と、自分は正月もなく仕事をしていて不機嫌なので私のお休みは切り上げました。
香ばしい御手洗ビジョンやら、楽しいお正月でした。