まとまらない話。

昨日の女性雑誌のアンケートで「幸せに見られたい」の意見は泣ける話だった。
つまり幸せではないと告白しているようでせめて幸せに「見られたい」とは素直でせつない。
幸せな時は幸せに「見える」かどうかなんてあまり気に止めないものだからなあ、、
「○○に見られたい」とは自分が実はそうではないってことを認めてるわけで私も自分が「ちゃんとしてないかも」と
いつもこわい。だから「ちゃんとしよう!」とファッション雑誌なんかを覗くんで、それなのに
お洋服を見るより特集の活字ばっかり追い掛けて、ああ、ちゃんとしてない、私ったら、、、
とは言うものの「幸せ」であるとか「ちゃんとしてる」とかはかなり相対的なものであって、
人から見れば十分「幸せ」そうに見えてる人なのにもっと「幸せ」に「見られたい」人もいるし、
私もちゃんとしてる、と人からは言われる。もっとも、それはお片付けに関することで、私は実は片付け魔だから
インテリアが攻撃的なほど片付き過ぎてる、とよく叱られる。「なんか、片付けてない私を責めてるような部屋、、」
と、親しい人に言われて、今のところこの禅寺のような居間の雰囲気をどうにかせんと、と思ったりするが、
よそ様が来た時だけだよっ!そんなに片付けてるのはっ!!で、ある。なかったことにするために
詰め込むところが沢山あるのよ、それ、お片付けの極意、なんてこれから家を建てる人にはアドバイス
でも、頭の悪いリスさん達と同じで詰め込んだ先から詰め込んだことも忘れてある日ひょっこりクルミが芽を出す、
ってことはないけど、まあ似たようなことが時々。あ、やっぱり「ちゃんとしてない」な、
「みかけだおし」だから責められるのよ、良心が、、「幸せ」もそうなのかしらね、「幸せに見られたい」は
もう「幸せに見えさえしたら中身がどうであろうがどっちでもいい」ってことかと、やはり年をとると
女はシニカルであるな、と一瞬思ったものの、そうでもないのかも。
「見られる」って意識は、こわいものがあるよなあ、、ある点では人からどう「見られ」ようがどうだっていい、
でもこの点だけは、譲れないの!ってあるんだろうな、それが自分の一番弱い部分、なのかな。
私のダーリンはおたくという言葉がうまれる以前からおたく趣味を持つ、筋金入りの「大きなお友達」で、
(と言って、最近「オタク」定義とはそれにセックスが絡むようなんで、うちのダーリンみたいに
マンガが純粋に好きな人は「マニア」って呼ぶのかもしれん、オタク「定義」の変遷はなかなか複雑)、
平気で数十冊のマンガをエエ年の大人でありながら少女向けも交えて買って帰る。「恥ずかしくないの?」と聞くと
「恥ずかしくない!」ンだそうで、そういう点でダーリンは立派だ。人目が気になって私には出来ませんよ、
そんなにマンガ買うの(ちょっと嫌み)。人に「見られる」以上の「幸福感」が「おたく(?)趣味」には
あるんだろうと、うらやましくも思う。なんかまとまらんな、剣道疲れ、
とかいいながら「腐女子化する世界」を読み終える。気になったところあれこれ、また感想を書く予定。
サダムフセイン君、絞首刑判決。TVで放映を許されたところだけ見る分にはフセイン君は
やはりそれなりの傑物であると思う。北朝鮮の六者協議への鋭い突っ込みには笑えた。
もうアメリカにおまかせしといたらいいんじゃないの?どっちみち、アメリカには逆らえないんだから。
それが戦争に負けると言うこと、東京裁判は無効と言う人たちはサダム君の支援者なのかな?どうなんだろう。