本日のお怒り。

久々にアートスピーゲルマンの「マウス」を読み直してみた。ダーリンが結婚する前に貸してくれて
続きは数年後に出る、と言うので結婚した。待望の2巻は1994年に出て育児におおわらわだった時期に
読んで記憶が曖昧だったが今読みかえして別の点からも面白く思う。何故父親はあんなにも
「ケチ」な性格か、私はうすぼんやりとそれがアウシュビッツの経験によるものだと考えていたが
持ち前の性格であると今は感じられる。このようにユダヤ人である自分の父親をまるで「ケチ」なユダヤ人の
カリカチュアのごとく描くのは相当、作者は勇気が必要だったと思われる。でも包み隠さず描く事によって、
その過去の記憶の痛ましさがよりましているように感じる。
「わからないものはわからない」アウシュビッツの記憶を持つ親世代に対して子供達はそう思うのだろう。
だからその悲惨なアウシュビッツ聞き書きの描写は端然としている。故に悲惨を強調することなく、
「事実」としてこちらに迫るものがある。哀しみの伝聞は難しい。でも批判精神を持った人が冷静に描く世界は
それを経験した人以上に「真実」を伝えているのではないか。
少し前にブログ上の「歴史認識」についてのやり取りを見かけて腹が立った。
特に戦争に関して、日本であれ、中国であれ、アウシュビッツであれ、死んだ人が沢山いるのは
「事実」でしょう?戦争で、誰も死ななかったの?と私は聞きたくなるような文章を書く人を山のように見かける。
何故その人たちは死んだのか、殺されて当然だったのか、では当然と考える「根拠」は何か、
「戦争」をしていたから?ではなんだって「戦争」とつけば殺していいことになる、
実際アメリカは今そうしている。それでいいのか、「守る」「守られる」と言う言葉を声高に叫べば、
いくらでも他国を攻撃していいことになる。でもそれで本当にいいのか。
今朝のニュースでイラクに住む少女のブログがアメリカなどで話題になっていることが出ていた。
学校にミサイルの落ちる環境、家の近くでの銃撃戦、いつ、この発信者の少女が無駄な銃撃によって
命を失われるかわからない。それでも「戦争」だから「ある程度の犠牲者はつきもの」でいいのか。
それを子供を持つ若い母親にいわせていいのか。私にはわからない。私は子供に何故人を殺してはいけないか
聞かれたら「自分が殺されたくないなら、殺してはいけない」と言うつもりでいる。その答えでは
多分間違いだとせせら笑われるだろう。前にたかじんさんの番組であのアホの橋下弁護士が、
(ああ、そういやあんなアホも弁護士なんだよなあ、今朝も受かりやすくなったって言ってたし
それほど遠い資格ではないのかもな、私でも)「襲われた時に何もしてくれない彼氏をどう思います?」
と田嶋さんに嬉しそうに聞いていて、たしか田嶋さんが助けを呼ぶ、と言ったのに
「誰もいないようなところでですよ」なんてこたえて「軍備」云々を「当然」だと認めさせようとしてたと思うが
あのな、「国」を「男」に例えて「国民」を「女」に例えるなら、まず、誰かに襲われる恐れのあるところに
「女」を連れ込む「男」ってのはろくでなしだって、私は言うよ。そういう「男」を賢い「女」は
まず「選ばない」ね。助けが呼べないようなところに連れていく「男」を選ぶ「女」も悪い、とも言えるが。
私はそんな馬鹿な男にはついていきません、それだけの事です。でも「国」は「男」じゃなく
「国民」は「女」じゃない。選ぶ権利なんか限られている。あの例えはどう考えてもアホだ。
ちなみにうちの子供達は「何故人を殺してはいけないか」なんて一度も聞いたことありません。
多分思いもつかんでしょう、そんな当たり前の事、聞くような子供を産んだわけでも育てたわけでもありませんし。
それはともかく、「戦争」をことさらに突き放したような見方をすることが、そして犠牲者なんか
「ただの数だ」と自分だってただの「数」に過ぎない無数のブログを書く人間が記すのに腹が立つ。
日本のブログなんか何も出来ているわけじゃない。イラクで命を日々危険に晒すブログを書く少女に、
彼女の危険も、奪われたあらゆる機会も、「歴史認識として歴史家に判断をゆだねる」と言えるかどうか。
言えるんだろーなー、根拠なく「自分は大丈夫」と思える人間は。
この巨額の財政赤字をかかえているにもかかわらず軍備費を増大させることに賛成する無数の日本のブロガー達は
イラクの少女の命一つほどにも価値がない。