金がないのは首がないのと同じ事なんだよーん。(その2)

タイトルに使った言葉を私はサイバラさんの本で知って、シェークスピア劇にでもでてきそうだよなー
と思ってたらなんと歌舞伎の中にある台詞なそうな。歌舞伎は詳しくないのでよくわからないけど
何となく上方歌舞伎じゃなかろうかと思うなあ、発想が上方商人的だし。
うちのばあちゃんは大阪商人の家で育ったのでお金に対する考え方がものすごく合理的だった。
一般的に流布するほど大阪商人は貪欲ではなかったように思う。確かに細かなところまできっちり計算するが
納得すれば気前よく払う、金はまわり回って必ず帰ってくる、という楽天的な考えが強かったようだ。
根こそぎ頂いてあとは知らん、的やり方はどちらかと言うと武士気取りで実は農民の子供だった渋沢栄一あたりが
やりはじめた事じゃないかと私は考えている。現代にいびつに残る「武士道精神」みたいな捏造は
ここらへんからおこったんじゃないか、という感触もある。大体「武士道」と言う言葉も「精神」って言葉も
明治以降の造語じゃないかね、詳しくは知らんが。ま、なんにしても金、と言うのは人間が発明した
大変便利な「モノ」であって実はそれほどこだわる必要はないと言うのが上方商人魂をもったばあちゃんに育てられた
私の考えだ。つまり金の事を話すのは決していやしい事じゃない、やたら金を汚がる奴に限って簡単に金に転ぶ、
とばあちゃんは言ったもんだ。金を単なる「モノ」と思えばそれについて話す事をそれほど
恥ずかしがる必要などない。今は昔の話になったがかつてホリエモン君は「金で買えないものはない」
なんて金が発明されて以来常識である事実を何百億(もっとか?)も儲けないとわからないビンボ育ちぶりを
さらけだしていたがあれに反発した連中はもっと下らなかった。金で買えないものはない、を
社会の仕組みにしてるのはそれが便利であるからであって、その事を「ひどい」とか「間違ってる」
とかいうのなら、金を流通させる世の中の仕組みをかえなきゃいけない、それってはっきり言って面倒だよ、
だから金で何でも買えるのは当たり前、問題はその金をどのように手に入れるか、どのように使うか、
をきちんと教えるべきで妙に「金じゃないんだー!」なんてしょうもない価値観を植え付ける必要はない。
この手の説を広めようとするのはつまり何もかも「サービス」の言葉で金を払わずかたずけようとする
最もがめつい連中が考え付く事であって、そういう連中はまず間違いなく金を握って離さない。
で、その金がどこに行くかと言うと「自衛」のための「軍備費」。
教育に本来払われるはずの金が削りに削られてどうも「北朝鮮」様、「中国」様、「韓国」様、ヘの
「先取防衛」に使われそうになっているらしい事を私はまだそこそこ「首」があるので思いつく。
子供達から学ぶ「機会」を奪ってまわす金の行方が戦争に絶対行かない人間達だけを守るためだけの
「軍備費」だ。私はテポドンの脅威より私自身が学んだ以下の事しか知らされない子供の状況の方が脅威だ。
私は「教育」とは子供達の魂の栄養ではないかと考えている。確かに学問は決してすぐ金につながるものではない、
何やら「金じゃないんだ」的な事を言うわりにこの日本「実学」志向が強まっているようだが、
「教養」と言うものに尊敬の念を抱ける程度に「専門」知識に触れさせてもらえれば、まともでありさえすれば
仕事のやり方は社会にでてからでもそこそこ身につくものだと思う。少なくとも「義務教育」において
「英語」が「専門」の教師に「英語」を教わる(公立中学ではほとんどの子は高校を受験するものだ)位の
「良識」を自治体や国に求めたい。何が小学校から英語を!だ、その前に中学生全員の授業に
英語教員が足りるようにしろよ、何やってるんだ、と、剣道部の顧問の先生で技術専門の先生が
最近、私は英語も教えてます、と聞かされて脱力した私の感想。先生、自腹で出すから蛍光灯かえてやってくれ。
前フリが長くなったのでまた続ける予定。
鶴見和子さん死去。大変哀しい。