ゴールデンウイークにちょっと真面目に考えてみる。(その1)

以前、「Sapporo Life」のkechack氏の「単因論」に「愛国心を明記したからといって世の中が悪くなると
限らないじゃないか」と「反対の反対は賛成なのだ」のトラックバックを送っていたuumin3氏が
教育基本法についてのエントリで「国を愛さなくてもいいと言う人はいないようだ」などと
ほくそ笑んでいるように思えたので「国は愛すべき存在であるか」と考えてみる。
まず「愛」というものについて私と彼女とでは決定的な認識の違いがあるかもしれない。
uumin3氏は「教育は強制である」と考えられる方のようで必然的に「愛国心」を「教育基本法」の中に入れることを
容認するのは「愛国心」は「教育」によって「強制」しないと身につかないもののように思われていると
私には受け取られる。つまり「愛」は「教育」によって「強制」されるもの、と言い換えられるかもしれない。
「教育」によって「強制」された「愛国心」が本当に「国」のためになるのだろうか、まずは疑問だ。
少なくとも私個人が「愛」を求める時「教育」により「強制」されたものを受け入れる事はありえない。
私は「愛」とは「教育」によって「強制」されるものなどではなく「自然」に「発生」するものだと思うし、
自分が「愛」されるように何者かを「教育」で「強制」しなければならない時が来たとしたら
私が求めるものは「愛」ではないと思う。「義務」であると言い換えるようなものを私は「愛」とは認めない。
それを「愛」と称するのは「欺瞞」というもので私は意外とプライドの高い女なのでそれを自分に許すことはない。
例えば私は結婚しているので夫に「私はあなたの妻なのだから愛されて当然だ」などと主張しなければ
いけない時が来たら私はもう夫から愛されてないことを認めるということだ。
「国」が「教育」による「愛国心」を求めるとはそれに似通った状況だと思われる。
「国民」から「愛」されていない「国」、と「国」が、「国土」が、認めたのだろうか?
いや、そう見なしているのはどうやら自信のない「国家」だろう。明らかに今の日本「国家」を愛する人間は
少ないと確信している政治家は多いようだ。まずは愛されるようなことをしていないわけだし、
その上で「愛」を求めるとはかなり厚かましい「操作」だと私は思う。
しかしuumin3氏は歯切れの悪い口調でも「格差社会」を容認するエントリを出されているようなので
この方がこの「国家」を「愛」しているのは間違いないかもしれない。
さて私が「愛」を「自発」的なものと見なすので「国」ヘの「愛」を「教育」の名の元に
「強制」する作業は容認できないと述べてきた。
その上で、そもそも「国」は「愛」すべきものかどうか、考えてみようと思う。(長くなるので明日に続く)