ゴールデンウイークにちょっと真面目に考えてみる(その2)

いやしんどい、ちいと遠出した上に昨日の自分の思いつきエントリを読むとどっと疲れが、、
でも言い出したんだからオチをつけねば。
さて、「国は愛するべきものか否か」ということについて、昨日まず、私の「愛」の概念を書いてみた。
それが正しいかどうか、又「国」に当てはめるべきものであるかどうか確証はない。
しかしもう一つ、私は付け加えておきたいことがある。
実は私は「愛」というのをそれほど評価していない。「愛」とはかなり不安定なものであり、
「愛」には必ず「憎悪」がつきものである。「愛」を受け入れる時、その裏返しの感情である「憎悪」も
同時に受け取る覚悟をもたなければ「愛」という危険なものは扱えない。
「愛」とはその対象になるものにとってはいくぶん迷惑な感情であると私は経験上知っている。
そのような感情を「国」に抱く事が正しいのかどうか、私には疑問に思われる。
かつて「愛国教育」を施された世代が戦争に負けた「国」をどのように変えてきたか、
決してあるべき「美しい」姿ではなく、むしろ「愛」の裏返しの「憎悪」を向けたかのごとく、
今の「国」の形をいびつにした。
今回、政府は「国」とは「国土」であって「国家」ではないと強調しているが、それならなおさら
「国土」を愛するなどと不自然であるように思えてならない。
とある国にうまれるとは親兄弟を選べなかった事に類似する。そりがあおうがあうまいがとりあえず
一生つきあいがきれない状態が普通で、もし子供である個人が親に不満を抱いたところで穏便に日常を送るために
つきあいに生々しい感情を持ち込まないように努力することだろう。しかし、ことさら「親子の愛情」なんてモンを
「教育」されたら、かなり個人は苦しい立場に追い込まれると予想される。文句の一つもいってやりたいところを
「愛」の力で押さえ付けられたらその反動は「憎悪」となる事だろう。決して望ましい状態ではない。
「愛」は難しい感情だ、必要とされるところに必ずあってほしいものだがいつもそうとは限らない、
でもそれが自然だと私は思う。ことさらに「愛」を強調しない事、
「国」にとってその方がむしろためになるようにわたしには思われる。
と、ここまで書いてやはりまとまらん、要は「愛」という面倒な感情を「国」に向けるのはよろしくないと
いいたいわけで、つまり「国を愛さない方がいい」が私の持論だ。
この世で国民全てがその国を愛する国などどこに存在するだろう、北朝鮮か?
或いはこの世でもっとも神様に近い国「バチカン公国」か?それでも北朝鮮から脱北者がひきもきらず、
またバチカンほど神に一番近い存在の「法皇」暗殺が臭わされる国はない。
かつて「神国」であった日本も「愛」の力で戦争に勝てたわけではなく、
イスラエル愛国者達が他の民族を弾圧する。
ネットでは山ほど「愛国者」が存在し、今か今かと「愛国教育」を待ち受ける、
もう十分ではないのだろうか、ネットに溢れる「愛」だけで、日本は。
どうにもオチがつかないのでできれば又明日に続く。私は書いていて自分は「愛」ってものに冷たい、
と気がついてやや落ち込む。ああ、こんな事で「オチ」をつけてどうする!そうじゃないだろう、自分!!
ってわけで、また出直し。「愛国教育」はやっぱり間違ってるよ。