ある不幸。

森鴎外の娘である森茉莉のエッセイ集に、

病んだ娘が自分の父親が何をやっても気に入らない、

座っていれば、立てというし、立っていれば座れという、

どうにもならなさに娘はじれて泣き出し、それを見た父親も娘の哀れさに泣く、

そんな切ないエピソードが書かれていたのを記憶する。

私は心の病の子供を持つ親を見るたび、いつもこの話を思い出す。

親が何をやっても気に入らない、最高の自分であらねばならないのに、

そうなれない、なぜならあの人が親だから、と、

ままならない人生の根本を「親のせい!」にしてしまう。

これが正しいかどうか、私にはまだはかりかねる部分がある。

最近の「毒親」「親ガチャ」を声高に掲げる人間は

「自己肯定感の低さ!」を親を責める錦の御旗のごとくに出してくるが

自己肯定感の低さとは、ゆがんだナルシシズムでしかなく、

最高でなければ最低になりたいという

ある種猛烈な負けず嫌いが「私なんて、俺なんて」と、人から常に憐れみを乞いたい、

人から高く評価されない代わりの感情として出てくるような、

また、そのどうにもならなさを責めていれば完璧ではない自分が楽になる。

しかし、そもそも人は自分も親も周囲も含めて完璧ではない、

それが認められない思春期の病をこじらせてやがては生きていくのも困難になる。

いつまでも親を罵り狂うことはまるで「ライナスの毛布」のごとく手放せないもので

と言って、それを続けていればいずれまともな人間は離れていく、最終的には親も。

罵られる親の経済力と度量をどこまではかれば気が済むか、

この手の心の病を持つ親の苦労はいかばかりか、

親が子供の意向全てに従い続けたはてに何が現れるのか、

許せない相手の首を落とすことまで手伝うか、

どれほど責められてもそれに対抗しながらも手を離さないでいられるか、

名前のある人間の子供の不幸を見かけると、

私は精神病患者の家族への無理解がどれほど大きなものであるかを考える。

私は病んだ子供の言葉を真に受けて一緒になって親を責めることはしないし出来ない。

子供の心の病のために、どれほど責められても、そのキャリアを台無しにされても、

手を離すことができない不幸を例えば麻薬や暴力で何度も逮捕された息子を持つ

80を過ぎた女優に見る。親がどうこうできる問題でもない。

と言って、精神科医が完全に治癒できるかといえばそうとも限らない。

その不幸を、もっと理解するべきではと考えている。どうにもならない悲しい不幸。