贈り物の話。

「物をもらう」テーマで、「チョロい」が話題になっていて
「欲しいものをもらったから喜ぶ」が私には「チョロい」に見えるので
個性的なものを欲しがる人間は「チョロくない」ではないと認識されないのがなんとも。
私は「欲しいもの以外を受け入れることが出来ない狭量さは気にならないのか」と聞きたい。
「何でも喜べば男はとんでもないものを送りつけてくる!」が答えのようだが、
もらったものを喜ばない程度でそれが避けられるわけではないので、日ごろの人間関係を根本から見直したほうが良いだろう。
贈り物は思いがけないものであればあるほど、面白い。
下の娘が小学生のころ、仲良しの男の子が家族旅行でアメリカに行ったとき、
「グランドキャニオンで見つけた大きな虫の死骸」を小さな箱に大切に入れて意気揚々とお土産に渡してくれて、
あまりに独創的だったので私も娘も大喜びした。(注・検疫ではNGですが10年以上前なので時効と言うことで)
彼にとって、当時「ジャングルジムの女王」として君臨していた娘への捧げものとして、
もっともふさわしいのが「アメリカで自分が見つけた大きな虫の死骸」だったのだろう。
その後、彼は別の中学に進学して疎遠になったが、成人式で久々に再開したとき「虫を喜んでくれた」を覚えていた。
大事に持って帰った虫を仲良しが喜んだ記憶は彼の中で幸せなものとして残り続ける。
「欲しいものしか受け取りたくない」人に、その幸せは相手に与えられないんじゃないかな。
もし「この私に○○のネックレスなんて、あなた、私のどこを見てるのよ!」と腹を立てる女性がいたとしたら、
「その彼はあなたのように可愛げのない女性をその可憐なアクセサリーのように「可愛い人」としてみているんですよ」
と、言いたい。
贈り物は相手が自分をどう見ているかだったりするので、腹を立てるのもわからないでもないが、
決して馬鹿にされるような値段でも、デザインでもないものを、ことさら低く見積もることもないだろう。
私はカップルが欲しいものを打診し合う「べき!」とは思わない。
そのほうが「無駄がない」のは確かだが、「無駄のない人生」は面白いか?と思う。
人生はいわば「無駄」の連続で、むしろその「無駄」を受け入れる準備が出来ていなければ、面白くない。
私の好きな言葉に「gifted」がある。
「才能がある」の英語で、この言葉は「才能は神様からの贈り物」の意味があるらしい。
「贈り物」は常に欲しいものを与えられるとは限らない。
思いがけないものを与えられたとき、人がどのようにあるべきか、受け取るのもおそらくは「才能」のひとつ。
その才能を贈られなかった人が存在するらしいことを、私は残念に思う。
幸せな週末を過ごす才能が多くの人に贈られるのを心から願う。