感想・「パレスチナ」(その1)

パレスチナ」(PALESTINE) ジョー・サッコ(Joe Sacco) 小野耕世・訳 いそっぷ社 2007年4月20日第1刷発行
米国での発行は2001年、コミックブックシリーズ9冊を1冊にまとめたもの、これに先立って、2冊にまとめられたものもあるそうだ。
読み始めてまず思ったのは、人間の生々しさを伝えるのに「漫画」は非常に適しているのだな、と言うこと、
猥雑で混沌とした人間の営みを言葉と絵でそれを巧に組み合わせながら臨場感たっぷりに伝えるのに、「漫画」ほどうまく表現できるものは
無いのかもしれない。
ま、ディケンズの時代から「挿絵」は重要な役割を果たしていたものだしな。
ジョー・サッコの絵でまず目をひいたのは、むき出しにされた人々の「歯」、
言葉、怒りをあらわすのに口もと以上に「歯」が雄弁であるとは思わなかったなあ、、、
そして、パレスチナの人々を脅すユダヤ人たちの歯並びが妙に良いように思えるのは、私の先入観か。
パレスチナの人々の歯並びは時に不揃いであったりして、パレスチナ人でも知識人階層はそうでもない気がしたが、
これは「冨」と「貧しさ」の対立をしめすのか、などと、ここまで勘ぐると、すでに妄想の域だな。
なんにせよ、20年ほど前のパレスチナの状態が良くわかる本だった。
で、この20年後をあらわした同じくジョー・サッコの「FOOTNOTES IN GAZA」(未翻訳)が書庫にあったのでぱらぱらとめくると
より殺伐とした状態に陥ってることが絵を見ただけでわかる、まだ「パレスチナ」のころはむしろ「牧歌的」とすら言えるくらいだ。
まあ、パレスチナジョー・サッコが取材した1991〜2年から考えれば、そのころむなしく踏みにじられていた子どもたちが
「成人」しているのだものな、
より過激に、苛烈に憎しみが燃えあがるのもわからないでもない、踏まれたまま、ただ死ぬよりは、死に意味を持たせたいと、
「聖戦」に加わる哀しい若さが理解できる気がする。
ジョー・サッコは完全に「パレスチナ」の側に、か弱い「卵」の立場に立っているので、読んでいるとどうしても「パレスチナ」よりになる、
それがもちろんジョー・サッコの「ねらい」でもある。ジャーナリスト、恐るべし。
しかし「正義」とは本当にむなしいもので、今現在、パレスチナの国連加盟だったか、承認だったかが議論されているらしいんだけれど、
これにアメリカ、ユダヤの人々が猛反発するのもなんとなくわかる、アメリカはともかく、ようやく自分たちの「国」を得たと考えているユダヤの人たちにとって
パレスチナが国であると承認されるのは、耐えがたい悲劇だろう、
今まで「ホロコースト」の悲劇を隠れ蓑にしてナチスと同じホロコーストを行ってきた事実がはっきりとさらされる危険性を
ユダヤの人たちほど理解できている民族はいないんじゃないか、言われ無き差別と共に生きるつらさを他者に強いてきた、
その反撃が凄まじいものになるのは容易に考えつく、自分たちがやってきたことだものなあ、それがいわば、「我が世の春」でもあったわけだし、
結局「正義」ってなんなんだろう、もう「アメリカ的正義」はこの世には存在しないのよ、「アメコミ」的勧善懲悪なる世界、
「コミックス・ジャーナリズム」がそれを駆逐「する」のか、「した」のか、まあ、「スーパー・マン」と「バット・マン」が戦うアメコミもあったよな、なんて、
私の感想文は常に脱線。それでもまた、続く。今日はここまで。