事件から。

16歳の少女が覚醒剤使用容疑で逮捕されたニュースで私がいちばん絶望的に思ったのは、
小学生女児を買った男がこの世の中に存在するという現実で、ブコメで見る「母親批判」はどうでもいい。
この母親の年齢がほかの記事を見ても出ていない、私よりずっと年下なんじゃないか、そういう気がする。
たぶん、この母親も自分の娘と変わらない生い立ちを経てきているんだろう、
少女はまだ少女のうちに発見された、だから逮捕という名の保護もされた、
でもこの母親はこんな不幸に自分の子どもまで突き落とすまで、発見されることがなかった。
少女の祖父母はどうしているんだろう、そういうつながりすらもないのかもしれない。
こんな不幸の連鎖を絶つために、もっと早く発見できないものか。
「母親の娘への支配」なんてとんちんかんな視線で語る事件ではないんじゃないか、
これは社会的「遺棄」事件、小中学校で、早めに救助されるべき事件が、どこですり抜けていくのやら。
教師の怠慢を責めたいような気がするが、こうした怪しい「家庭」は関わろうとすると「引っ越す」、
当然、どこの学校に転出する、などという手続きなど経ないので、
ヘタしたら子どもが義務教育にさえ、参加できなくなってしまう。
安易に母親非難をするよりはこの現実にもっと世間が目を向けてくれたら、と願う。
ふと、大阪の2児遺棄致死事件を思い出した。
少女が今まで生きてきた現実は、死んでしまった二人の幼児が過ごした時間と変わりがなかったかもしれない。
過酷な環境下で、それでも彼女は生き延びた。幸せになってほしいと心から思う。
一方、ベビーカーにまつわる記事で、それを書いた女性を非難するコメントが多く集まっている事実に愕然とした。
これは「障害のある人間は外に出てくるな」と言ってるのに等しいことに気がついているんだろうか?
「オレたちに邪魔なものは遠慮しろ」とは、肉体は健常であっても心に障害でもあるのだと憐れむよりしかたがない。
好きで子供をつれて出てきているわけではない、何かの要件があって出てきているのだ、
この夏、足の悪い母を連れて上京したとき、エスカレーターのない駅で母が人におされて階段から転げ落ちてくるのを
受けとめられるようにつねにその前を歩いて、なんと東京は不親切な作りの町か、と呆れた。
病院が集中していて病人や年寄りが多く利用する駅でさえ、バリアフリーではない。
タクシーも多用したものの、道を知らない運転手にあたることもあって、
「すみません、一方通行みたいなんで、ここでおりて歩いていってください」って
「なんのための、タクシーやねん!」とキレそうになった。よろよろする年寄りを少しでも歩かせないために使ってるんだろうがぁ!
って、子連れでタクシー利用してもそういう事態は起こりうると思う。
そこでおりて、ベビーカー開いて、となると本当、泣きそうになるほど大変だと思う。
自分が中年のオバチャンになっていちばんよかったことは子連れで困ってるお母さんをちょっとだけ手伝えることだ。
たいしたことをしているわけではないのに、本当にうれしそうな顔をしてくれるので、私は幸せな気持ちになれる。
人がいい顔をするのを見るのは本当に気持ちがいい、舌打ちしないで、手伝ってあげてごらんよ、といいたくなった。
妊婦への憎悪視線についてのツイッターのまとめを見て「母親批判」はこういう流れのひとつであると感じた。
これはじっくり読んで、また感想を書く。