小熊英二、「民主と愛国」を読み終えて。(その2)

あら、思ったことを書いただけで、色々あること、finalventがそんなに人気があるのは何故かしら、
あんなにいい加減なことばかり書くのに。finalventが下らないそそのかしをブログに書く権利があるように
わたしにもそれが気に入らないと書く権利がありますのであしからずご了承ください。
小熊英二の論理は簡単にくずせるとfinalventが書いてありましたのでもしできるなら
どなたかやったらいかがでしょうか、finalventが書くことは詭弁だと私は思いますけどね。
他の方がどう思おうとその方々の勝手ですのでお好きにどうぞ、
私は小熊英二と違って優しくはありませんので啓蒙精神はありませんし。
さて、「民主と愛国」、この本では戦後の混乱の中で「民主」と「愛国」と言う言葉がどのように用いられ、
どのように「変節」し、どのように派生していったかが、私のような政治や思想に何の興味もない人間にも
わかりやすく書かれている。私は上の下らない前置きに小熊英二と「啓蒙」の言葉を関連づけるように
つい書いてしまったが、小熊英二の書くものに「啓蒙」がよく意味するところの「押し付けがましさ」は
かけらほどもない。彼は大変あっさりと事実を、その根拠となるものを提示しつつ書く人だ。
「民主と愛国」は大変分厚い本であるが引用書籍の紹介に費やされている部分も多い。
故に本当はそれほど長くも、難しくもない本なのだ。小熊英二に批判的な意見によく彼が左翼であるという主張も
見かけられるがそんなことは決してない。むしろ「左」がしてきたことにやや懐疑的な趣さえ感じられる。
そしてその「右」「左」思想が戦後もどのようにクルクルと変わっていったかを呆れるほどあっさり書いているので
今の何が「右」やら「左」やらわからない状況がそれほど新しいものではないことに気付かせてくれる。
私はそもそも「右」「左」思想なんてものはとっくの昔に死に絶えたとばかり思っていたので、
ネットをはじめてあれこれ雑感を述べていると時々引っ掛かる意見に驚かされたものだ。
私自身は超保守のどちらかというと右寄りではないかと常々思っていたのがある人にとっては「左巻き」であったり、
(でも、私は今まで共産党の議員さんを「見た」こともないです、自民党議員なら身内にいますが)
また私が恐ろしい極右と思っていた鈴木邦男さんが今では「左」扱いだし、これは何故なのか、
大体「右」「左」というものは何を「核」にして成り立つものなのか、或いは何かが「支点」となっているのか、
直線上にある関係なのか、或いは丸いものなのか、1年ほど前に「左翼」「右翼」とは結局昔の日本航空
鶴のマークみたいなもんじゃないか、だから上部で右も左もつながってそれを外側から眺めたなら、
同じものを目指していると考えるべきではないのかと、ふと思った。決して対立するものではないのだと、考えたい。
自国の気の毒な従軍慰安婦の方に純粋な憤りを感じてつい間違った引用をしてしまう韓国の方々や、
また、東京裁判戦勝国が行ったというだけで受け入れがたいと考える日本人は同傾向と思うし、
そうしたものがお互い理解していけるのなら、そしてその鍵になるのが戦後の思想の流れの中にあるのなら
私は様々なことをもっと知りたいと願う。小熊英二は「民主と愛国」を書いていて絶望的な気分になったようなことを
どこか(「戦争が遺したもの」だったか?)で言って、だから最終章に「べ平連」のことを持ってきた、と、
でも私は格別「べ平連」がなかったとしてもそれほど絶望的にはならない、人間がずっと続いてきた証を、
敗戦が等しく日本人に遺した心の傷を、追い掛けていくことが絶望的なことだとは思わないからだ。
人間のやってきたことに発展がない、と私は思わない。進歩もあり、後退もあり、
でも時間が元には戻らないように私は人間の意識も着実に少しづつでも前に進んできていると思う。
私はそう思わねばいけないと知っている、絶望なんてやっても無駄だ、
思想を知らない人間はそういうことだけはちゃっかりしているのだ。
(読まなくていいようなものをつい読んで時間がなくてまとまりません、で、つづく)