と、まだ「3点リーダー」を使うおばはん。古臭い人間なんで。
検索記録に「あまちゃん」がやってた頃のものがあって読むと、しんみり。
こういう時期だったか、
親元を離れて東京にいる娘がつらいことがあって泣きながら母親に帰りたいと訴える、
その時親はどうすべきか、
「あまちゃん」の中では母親役の小泉今日子が電話口では突き放したものの、
気になって様子を見に上京する。
当時の私はそれを支持して、そのことは今振り返っても正しいと思うのだけど、
問題は当時の私で、帰りたいと泣かれたときに帰って来い、と言ったものの
様子を見に上京することはなかった。
口で何と言おうが言ってやったほうがよかったのに、と、今になって思う。
あの頃の私は実父のアルコール依存に振り回され、
下の子はまだ高校生で絶賛・武闘派体育会部活中だったので
「行く!」の選択肢はないと思い込んだが本当は行ってあげるべきではなかったか、
ふと、キリストは子羊一人が迷えばそれを必ず探しに行く、の話を思い出して、
その話を、私はその他大勢の迷ってない子羊の群れはどうするのだ、と考えたが
今は迷ってない群れはこれからも迷うことがないと信じられるから
やはりたった1匹を探しに行くのは正しい行為だと理解している。
迷える子羊だった娘のところに行かなかった私、
年をとるとこうしたちょっとした後悔が妙に突き刺さることがある。
本人はもう忘れてしまっているようで、特に今どうということもないけれど、
上の子にはなぜか父親である配偶者もやや厳しめで、
「行かなくても良いだろう」と言ったくせに
数年後下の娘が同じように夜中に電話をかけてきたときは「明日すぐ行け!」などと、
なーんやそら、と、でもこの時は言って本当に良かった。
かなり追い詰められた状態だったので。(部活が原因)
あの時の配偶者は何を感じ、考えたのか、
上の子よりも切羽詰まっている、とわかったのか、
実際、下の娘はほとんどそんな電話をかけてこないので、
危険な状態だったのかもしれない。
今振り返れば、配偶者は正しく、
「上の子の時と同じように」と四角四面だった私は「間違っていた」とわかる。
そして配偶者も「父親」として後悔もあり、成長もしているんだろう。
時々、私は間に合ったんだろうか?と思い返すことがあって、
どうしようもない後悔の念に打ちひしがれることがある。特に深夜には。
日記をつけ続けることで考えさせられることが多い。おわり。
(元記事は2013年7月28日の「昨日の「あまちゃん」が、、」)