たたき売り「ばなな」に手を出す、の巻。

私は「吉本ばなな」と「さくらももこ」の区別がつかない。当然、1冊も読んだことがない。
で、このたび、話題になったエッセイの抜粋を読んで、
以前、ネットで読んだ「100円ショップで100円以上のクオリティーを求める痛い客」の言い回しを思い出した。
こういうおばはんであることを全く意識しない見事なまでのおばはんっているのよ、私も含めて。
場末の居酒屋の店長を困らせてなにをしているんだか、1流の扱いを受けたいのなら1流の店に行けばいいだけの話じゃないか。
30過ぎの人間を「男の子」扱いするようなおばはんが、なにを若ぶって「居酒屋」になんか行ってるのやら。
自分たちが1流と認めた店で同じような扱い(持ち込み拒否)をされたら全然別のことを書いたりするんじゃない?
「さすが1流のお店」「きちんとしてる」と、やんわり断られたらかえって褒めちぎる、みたいな。
それが「いいときの日本」を「知っている」と臭わせる、「気取らない人間だから居酒屋にも行くけど、1流の店の扱いも知ってるのよ」
を書くバブル人間の感覚、あー、もう、超、貧乏くさい!
利用した居酒屋を「たかがこの程度の店」とタカをくくって「来てやってる」と思ってたんだろうな。
だいたい、大切なしばらく会えない友達の送別会に、はやっていない居酒屋を使うか?
とっくに40過ぎてるんだから、ゆっくりしたいなら、ホテルで部屋を借りてルームサービスでもとって騒げ!
その手の「大人」の振る舞いも出来ないくせに、周囲には、「大人」であることを求めている、「年下」の人間に対しても。
私が気になるのは、この集団が、叱られたバイトの子に「チップ」をあげたかどうか、一番の被害者はこの子だろうに。
そもそも、店長から注意を受けた時点で「いくらかお金も支払う」なんてもったいぶったことを言わずに、すぐに謝って、
にっこり笑って「迷惑料」と、それなりのお金を差し出すことを何故しなかったか。
いい年して、金の使い方一つわきまえていない、バブルって、この手の「ただ」でいい思いをするのが「当然」の人を量産しちゃったんだな。
大人である自分たちの出方一つで、別の結末も見つけられたはずなのに、それはしないで、ねちねちと、エッセイに「書く」。
言うことを素直に聞いた世間知らずのバイトの子には「気のいい」、我を通してもらえなかった店長には「バカみたいな」、
そして自分たちは「楽しく」なんて、あまりにもわかりやすくて、涙が出ちゃう、これが同世代作家の文章なんだなあ。
店長はこの集団をどうしたらいいのかわからずに、バイトに当たり散らしたんじゃないか、そういう弱い人間だろう、
だからその場は黙って見逃して、会計の時にぼったくりの上乗せ値段を請求しない、私ならするね、「お持ちこみは別料金になっております」って。
全く、この店長は「バカみたいに」善良だわ。
しかし、こんな客は払う段になって「えー、持ち込み禁止なんて聞いてなかったんですけどー」みたいなことを言い出しかねないしね、
「グラスもかしてもらえましたしー」って、こんなの、2度と来ないでいいわ、彼らは、揉めなければこんな店が存在することすら、忘れるだろうしね。
息するように「特別」を要求するくせに、その「特別」が「当たり前」でしかないから。
接客業の苦労を全く知らない、明らかに「目下」の人間に対するこの配慮のなさ、
無駄に年だけ食ってる人間のくだらなさを堪能させていただきましたわ、ばななはこの先も読むことはないな。
今、気がついたが、これ、幻冬舎文庫なのか、ごめん、貧乏くさい出版社が貧乏くさい作家に貧乏くさいことを書かせているだけの話ね。
こんなものにつっこむ私が一番、貧乏くさい、反省しまーす。「ただ」で読んだ本の内容にねちねち書く、私が「ばなな」より痛いでーす。
とりあえず「ばななはさくらももこと別の人」を覚えまーす。