「弱者擁護」のあれこれ。

「あなたは、もぉおー忘れたかしらー、かつて「自民党をぶっ壊す!」と言ってた「純ちゃん」をー」
と、「神田川」調にばばあが歌っております。
私が「ぶっ壊す!」を一切信用しないのは、このときの「純ちゃん」効果ですな。
この先「○○、死ね!」に拒否反応を起こす人はいるんじゃないかな。
言葉を巧妙に使いすぎるのは危険、とろくでなしババアはシャーシャーと書いておりますことよ、おほほ。
昨日、ブロゴスで「皆殺し映画通信」の柳下さんがアメリカのレイプ問題を取り上げたのを読んで、
その中に紹介されたレイプ訴訟に関わった女性検察官が、被害者の女性側ではなく加害者側に立つ行動をとった上、
退職してレイプで訴えられたスポーツマンの弁護で活躍しているのを知った。
柳下氏はアメリカでのし上がるにはスポーツマン支持者であることが有利なので
その女性元検察官は法律家として「正義」よりは支持の「数」を増やすことを合理的に選んだのではないかと推測して、
なるほど「数」を集めるのに、アメリカでは犯罪隠蔽に走るのでも「あり」と考えるかと感慨深かった。
日本で「弱者擁護」を標榜して数を集められるのは、国民性がまだ「優しい」のかな。
しかし、私が現実世界で近年見てきた「貧困」を取り上げる人間はむしろ「弱者擁護」の絶対正義で自分の欲しいものを勝ち取る。
「弱者擁護」を大声で言い立てる人間を政府はむげには出来ない。
与党政治家たちも「貧困に関心がある」パフォーマンスの道具として、彼らを「識者」として呼び、政治活動に参加させる。
これは双方「ウィン・ウィン」な関係で、大声を出したほうは政府に識者の「お墨付き」をもらってそれをネタに「講演」出来たりするし、
政治家側は、無数の貧困を救うより、小うるさい連中を多少の補助金とポジション提供で黙らせれば安くつく。
故にはじめから「弱者擁護」を掲げる人間のなかにはその「鼻薬」目当てにやってる連中がいるんじゃないか、
ここ20年ほど、一向に「弱者」はいなくならないし、むしろひどくなっている印象だ。
「弱者を救え!」パフォーマンスで、弱者の役に立つ「何か」ってあったかな?
私が「弱者擁護」をする、社会に出るのに怪しげな手法を駆使する人を警戒するのは教育界に妙なものを持ち込みがちなせいで
水からの伝言」だの「江戸しぐさ」なんてのは大体こういう人たちの発展系ではないかな。
「弱者を救え!」は確かに大切なことだけど、「それを誰が言うか」も大切なのだよね。
柳下さんの記事に話を戻せば、アメリカではスポーツマンを大切にするほうが女性の権利を尊重するより数が集められるとは、深刻に病んでいるな。
アメリカほど格差が開いた国はないのかもしれない。「自由・平等」を標榜する国だと言うのに。
本質的に「自由・平等」であるよりも「自由・平等」の「パフォーマンス」をしているほうが安上がりか。
トランプが大統領になるわけだ。いっそ、みもふたもなく正直なほうがましだということかな。
柳下さんの記事は最近はてなで千以上のブクマのつく記事よりはるかに読まれるべきなのに、なぜか100しかつかない、
この馬鹿馬鹿しさをはてな「正義の味方」が断ずべきだが、はてなの正義の味方は千のブクマを集める側なので書かないな。
はてなの行く末も不安だわ、、、(涙)