今朝の朝日新聞では無事池上氏のコラムが掲載されていて、その下にある文春やら新潮やらの広告がややむなし。「フライング」だね。
コラムは「この程度でなあ、、」の内容で、何がそんなにいけなかったのやら、
多分、しれっと載せていたら、誰もが「斜め読み」してそれで「おしまい」だったような、「何が何でも謝罪!」の話ではないしね。
この従軍慰安婦記事問題で困るのは、検証して認めたのが「従軍慰安婦は「国家で強制連行の証拠は」なかった」で、
私が「」をつけた部分を抜かして「従軍慰安婦はなかった!」と信じられている方々がいるらしいこと、水木しげる先生の本でもお読みになれば?って感じ。
池上氏のコラムは朝日新聞の記事の中では御用執筆家の匂いがしないので、「別腹」的にいい感じ。
朝日新聞の記事で私がいつもうんざりするのはやたらに一方向に向けて「煽る」がある点なんだよね、
実のところ、産経記事と変わらないほどわかりやすい。
「これではこうなるにちがいないー!」ってのは、「ない」のだよね、人間のように複雑な生き物にたった一つの答えはない。
教育面で「こんな育てられたかたは危ない!」とやたらに煽るが、
じゃあ、それ以外の育て方をしたら、そうならないか、というと案外そうでもなさそうだよ、ってのが子育てをしてきたらわかる。
人間は「神の眼」は持っていないんだよ、「こうしたからああなるに違いない」は基本的には「主観」、個人の好き嫌いが左右する世界、
せいぜいが「私の好みの育て方ではない」程度。
話は変わるが、昨日ネットで読んだところで、概ね内容に異論はないものの、「この子は伸びる!」とか「この子は背伸びさせられてる」は違うなあ、と思った。
それは書き手がその子供の育て方に好感を持つか持たないかで、その「予測」はせいぜいが「希望的観測」、
何千人に話を聞いたとしても、多分「わからない」ものは「わからない」んじゃないかな。
自分が何を選び取るかがわかる程度にしかなれないように思う、子供がどうなるか、なんてのは本当にわからないものだよ、
それだけが子育てして「わかったこと」かも。
ネットだけではなく紙媒体でも書く人なので、もの書く人間にはやはり独特の主観があるのだとわかった。
結局、新聞記事でも、個人の意見を廃することはできないんだろう、ならば出来るだけいろんな人の意見を載せるべきだと思う。
ネットで読んだ話では、還暦に近い人が半世紀生きてやっと「諦められた!」宣言が印象に残った。
いやー、50まで「諦められない」人のほうが「マレ」なんじゃないかな、その「ガッツ」がすごい。
そして実のところ、ずっとわからないのが「私はブスだから」と公言する人が、なぜ、自分の顔を晒すことができるのか、
「ブス」と考えているのに、なぜ、異性(あるいは同性?)からの評価をいつまでも気にし続けるのか、
「ブス」が確定しているのなら、評価は誰もが同じとは考えないものかな、早々に諦めもつくでしょうに。
私は自分を「ブス」という女性をあまり信用しない、本当にそう思っている人は決してそれを口にしないものだから。
自分でわかっていることを他人に言われるのは怖いものね、その切なさは理解できる。
「私はブスだから」と言いたがる人は「そんなことはないですよ」と他人が言うのを待っているのがなんとも。
そうとしか、言いようもないからね。
昨日の日記には、思いがけずブクマがついて、形見分けの話を面白いと思われる人がいるんだな、と興味深かった。
多分婚姻が「家」同士のものであった名残なんだろうね。
「女性側の資産保全の意味があった」というよりは「家」の資産をどう守るか、だったんだろう。
昔は若くして死別もあったから、その時「嫁」を家に戻す際、実家から持ってきた着物と婚家で作ってもらった着物を区別するために「女紋」があったとか。
女性にとって「着物」は「財産」だったものね。
でも今は、個人で働いて買ったものは誰に譲ろうが基本的には「自由」、
私には娘しかいないけれど、もし息子がいたとして、そのお嫁さんに自分のものを譲るかといえば、微妙な気がする、やはり自分の娘だけにあげるかも。
私はそういうエコヒイキな人間です。きっぱり、で終わり。