「売る」ってことを考える、「春」ですし。

「売春」とは「春」を「売る」と書く。てなわけで、売ってるものは「春」なわけで、
さて、この場合、「春」とは一体なになのか、「女のからだ」?おや、「女のからだ」とは不思議ですなあ、
ある時は「機械」であったり、ある時は「季節」であったり、大忙しだ。とても同じものを示すとは思われない。
私は「春」の意味するものとは「感覚」だと捉えている。
昨今、花粉症の蔓延で「春」があまり喜ばしいものではなくなった人も多いでしょうが、
本来「春」の示すものとは、なんとなく嬉しいものだったと私は勝手に考えている。
冷たい土の中に閉じ込められる冬を経て、命が柔らかく芽吹きはじめる春を愛さない人はこの世にいないだろう、
これは全世界共通ではないだろうか。で、「春」を「売る」、「季節」が売れるものならば喜んで買う人は
確実にいると思われる。エルニーニョ現象による暖冬で様々なお悩みをかかえた自治体、または農業関係者、
実際、雪を降らせるマシーンなんてのが開発されているので、悩みは切実だ。
買う人があれば売る人が出て来るのは道理、「春」を「売る」とはそういう成り立ちであろうかと思う。
「売春」とは「春」という「感覚」を売るものなのだろう、気持ちのいい「春」、
それを少しだけでも欲しいと思う人、少しだけなら売ってあげてもいいと思う人、人はそれぞれだ。
私は当人同士に合意のあるセックスはすべからず「平等」だと考えているので、
その「合意」を導くものが「愛」であろうと、「婚姻届」であろうと、「金」であろうと、
それは本人達が納得していればなんら問題はない、それぞれの価値観を他人が云々することは
どう考えても正当性はない。ましてや「差別」が介在する余地もない。
「合意」を導くものでもっとも不可解なものが実は「愛」であったりする気もするが、これは私の個人的な意見、
随分と都合のいい使われ方も「愛」はしてきたようなんで、「愛」自体が悪いわけじゃないんでしょうしねえ、、
それはともかく、「春」と言う楽しげな「感覚」を「売る」行為をする人が差別されるのが妥当か否か、
私はあんまり真剣に考えたことがなかったのだけれど、今回、壮大なまでの広がり様を見て
多少自分自身の中に「売春」と言うものへの差別的目線があったかな、と反省させられた。
先日苦しい答弁を迫られたわが国首相安倍晋三氏の
「そのような職業に決して進んでつかれた方がいたとは私は思っていないが、、」の御意見に大いに賛同し、
(悪いけど従軍慰安婦問題について私は「なかった」なんてトンデモ意見を決して支持してないし、
「見直し」なんてのはむしろ従軍慰安婦の方々に「日本軍のために色々ありがとうございました、
国家より年金を支給させて頂いて、日本の国民栄誉賞をお受け取りください」とでも言わない限り、
全く必要ないと思っている)そうした行為を行うに至った過程を憎むべきだとの感覚で
「売春行為」を考えていたのだけれど、その感覚の中にうっすらと「差別感」があるのにあれこれを
ひつこく読んで気がついた。ずっと以前に「女性の尊厳が汚される、汚されない」の意見を
その「汚れる」の感覚は誰が「汚す」のか、突き詰めて考えれば「セックス」と言う行為そのものが
否定されるべき「汚れた」ものなのか、では何故、それがたった紙切れ一枚で神聖な「婚姻」と見なされるのか、
人間の「正当性」は全て人間が作った「法律」ではかられるべきなのか、考えはじめれば果てがない。
売春行為を泥棒と例えた人がコメント欄にいるのを見たが、では金を払わないセックスは泥棒かもしれませんね、
「春」が「売られる」「価値」のあるものだと、認めるからこそ「婚姻」が必要なんじゃありませんかね、
「この「産む機械」は今後売買を禁ず」の契約書を国家が発行するわけです。「政府専用機」ってか?
どうも、この国ではその意見が「寛容」でもって同意をえられたようだが。
合意さえあれば夫婦間セックスも一夜限りの関係もそれほど違いはないと考える方が私にはわかりやすいわけで。
かつて売春をしたことがある人を、差別してもいい人間であるかどうか、その人をよく知ってみないとわからないので
明言はさけるが、それなりの事情があったんだろうと察して、過去のことで差別して当然と私は思わない。
当事者の人が本当に何を思っているのかわからなかったが、少なくとも元風俗嬢だった人は
自分を作り上げてきた過去の職業を否定したくない、今の自分自身を否定したくない、そして差別もされたくない、
と思っているのだと私は感じた。
そして自分の息子の嫁に売春婦は嫌だと、そんな女を息子が選ぶはずはないと断言した人は、
自分の息子を全く信用しない人なんだなと思った。もしそうした過去のある人をつれてきたとしても、
息子が選んだ人だという信頼感が持てないとは、自分の教育を簡単に全否定する人だと私は見る。
とか言いながら、ある日、自分の子供が「私、フーゾク嬢になってみようと思う」と言ったら、
確実に「なんぼいるんや」と聞き返す、私は凡庸人。
「春」を示す柔らかな「感覚」を売る、それを「買う」、まだまだあれこれ考える余地はありそうだ。
それをする人たちを哀れに思うのもまた、差別心の潜むものなのかも、と思った。
難しい話題でしたなあ、、「売る」「買う」の商売はどこでも同じように大変だってことで。