料理本を「読む」。

平野啓一郎は今度デビュー作を読んでみることにして、今は、「決壊」と共に図書館で借りてきた本の1冊、
「新版 娘につたえる私の味 辰巳浜子、辰巳芳子」を読んでいる。
辰巳浜子さんは戦後の主婦料理研究家の草分け的存在で、現在料理研究家の「大御所」である芳子さんのはお母様である。
辰巳芳子さんの本は2冊持っていて、1冊はかの有名な「あなたのために」という「スープ」本、
高価な本なので図書館で借りてよく読んでから、買うことに決めた、(高かったわ、、涙)、
もう1冊は「あなたのために」を手軽にした「いのちをいつくしむ新家庭料理」、
で、この2冊を熟読し、手間暇のかかりそうな手順なので作るのを敬遠していた、かの有名な「スープ」を作ってみた。
作ってみると思ったほどの「手間」でもない、意外に簡単にできて、もうレシピを見ずにほぼ出来るようになった。
「読む」と「作る」とでは随分違う、読むだけでは何となく「難しそー」だったけれど、
「難しそー」と思わせるのは非常に丁寧に説明を重ねているからでやってみればちょっとした「工夫」で出来ることだったりする。
私がよく作るのは鶏の手羽先を使うスープで、これは様々な「臭み」とりを組み合わせているのだけれど、その分量が絶妙だ、
特に、鶏の臭みを抑えるため、セロリ以外に「干し椎茸」を使うのは慧眼だと思った。
実は、最初に作ったとき、書かれている分量分より多めに手羽先を使って、他はちゃんと計って入れると、鶏の「臭み」が強く出て、
次にきちんと計って作ると、「真っ当!」と感動する「味」になった、「正しい」味のスープが私にも出来るのはすごい。
ここまでの味が誰にでも出せるようにするまで、辰巳芳子さんはどれほどの試行錯誤を重ねたか、
本来「味」とはこうあるべき、を「本」から教わる、作ってみて、辰巳芳子さんが「料理界の哲学者」なんて呼ばれるのがわかった気がする。
あれこれ鶏の種類を変えてやってみると、安売りの鶏手羽先では鶏本来の臭みがないのでセロリの臭みがスープの中に強くでてしまう、
その微妙な違いがはっきりわかるのは、こわいくらいだ、「丁寧に作る」ことを侮ってはいけない、と自分の料理法を反省させられた。
私以外の家族がセロリの匂いを好まないので、それが強く残る「だしがら」になった手羽先の再利用法や
微妙にスープに残るセロリの臭いを極力抑えるよう、臭み取りに使う量を極力抑えるする予定で、
多分、こうして「家庭の味」が出来あがるんだろうな、
私のようにほとんど「家事」や「料理」を学ばずに結婚した人間にとっては、やっと自分がここまで到達できたことに深い感慨を覚える。
今回、娘である辰巳芳子さんが監修をした辰巳浜子さんのかつての名著は昔の家事のあれこれがわかるので非常にありがたい。
私世代では親に習ってこなかった(実家の母は仕事を持った人だったので時間がなかった。)「知恵」が惜しげなく書かれている。
この新版では、月ごとに娘の辰巳芳子さんが母親の浜子さんの写真や持ち物を紹介されていて、それが「時代」を感じさせるのも素晴らしい。
ふと、一番最後のページの浜子さんの年譜を見ると、辰巳芳子さんがたった二十歳で夫を戦争で亡くしたとき、母親である浜子さんは未だ四十歳、
今の私よりも年下であったことを知って愕然、若い娘のあまりの不幸に、母親として、どれほど心を痛めたことか。
その年譜によると、その後、満州に旅立った浜子さんの夫も敗戦後数年間、行方しれずだったらしい。
昔の人は本当に苦労したんだな、とあらためて。
今は容貌までお母様そっくりの立派な料理研究家となられた辰巳芳子さんは、
若いころ、夫を亡くした後かなり長い間、心を患われたことがあるとどこかで読んで、それを思わせるくだりも浜子さんのこの本に出てくる。
娘の、そのどうしようもない痛みを、何年もかけて料理で癒そうとしてきた、娘が欲しがる食べ物を与え続けた、
非常にさりげない記述ではあるものの、浜子さんの母親としての在り方に胸を打たれる。
食べること、食べさせることで、どれだけのことが出来るか、私のような人間は、全く、正座して読まねばならないな。
戦争が奪ったものは山ほどあって、本来つたえられるべき料理や家事の「知恵」も戦争で一度断絶しているようだ。
「いのち」を奪うとは「文化」を奪うことでもあるのだなあ、と
「たかが料理本で」と言われる人もいるだろうが、そういうところからでしか私は自分によくわかることが拾えない。
でも何かを「つたえられる」とはこういうことだと思った。
この本を買おうか、どうしようか、立派な本なんで3800円(プラス税)もする、とほほ。
文藝春秋社はこういう「いい仕事」するけど、やはり高いわぁ、、、