ハルキをめぐる冒険。(おわり)

ブクマ、その他を読んでいて、「アンチ」とは「村上春樹が嫌い」と言うより、「村上春樹作品愛好者が嫌い」っぽい気がした。
セカチュウ」がいい!とか言ってる連中が嫌だ、みたいなもんか、ま、気持ちはわかる。と言って私は「セカチュウ」を読んでいないんだけど。
無学で偏見まみれの私にとって村上春樹「愛好者」とは優等生なお金持ちの坊ちゃん、お嬢ちゃん、のイメージがある。
(注:私の中では「ハルキスト」=「村上春樹愛好者」にはならない、ビミョーに違ってる、と思う。)
これは何故かよく考えたことがなかったんだが、比較的、その作品分析に「正しい」とされる明確な「答え」があるせいかもしれない。
今回のあれこれを拾い読んでいると「愛好者」はみんな同じようなことを言うね、
「すっきりとした文体」とか「透明感」とか。私は村上春樹で初めて「文体」なんて言葉を知ったよ、
「すっきりした文体」ってなんだろうかね、私のような人間が読んだ後でその内容を「すっきり」忘れてしまうような「文体」ってことかしら、、、
「曖昧」な言い回しをその「分析」に用いる人が多くて、それで「何となく」わかった「つもり」になっているような、
それが「スノビズム」か「ニヒリズム」か。
「愛好者」とは「村上春樹、わからん」とか言うと、それを言い出した人間を遠くにいる人間のように眺めた後で
うっすらとほほえんでその声を無視する、みたいな、かねえ、、、
親しくしていた「ハルキスト」は、そう言う人では全然なかったんで、「愛好者」とは違うと思っている。
ま、この人は本当に育ちのいい人だったので他人をバカに出来なかっただけかもしれないな。
ブクマを読むと「愛好者」に、不器用な自分を装いながら実は器用に立ち回るような印象を持っている人もいるらしく、
私にとっては、「愛好者」ではなく、本当の「ハルキスト」とは、器用に何でもやってるように見えても、そうではない、
本当は何かにつながれていて、そこから逃れ得ない人じゃないか。
「羊をめぐる」を勧めてくれたハルキストは、最近、ひょんなことから、大学にその後復学し院まで進み、今はどこかの大学で教えていると知って、
彼は、一族郎党「大学教師」という「枠」の中にいる人で、結局そこから逃げ切れなかった。
そんな自分自身を「あきらめる」までの「つなぎ」が「ハルキスト」になることだったのかも、と勝手に思っている。
なんにしても、私にはなれませんわ、「ハルキスト」にも、「愛好者」にも、「生活感」の希薄なものには、「はまれ」ないんだよな。
このたび、「村上春樹に一家言あり!」と言うよりはむしろその「時代」に「一家言あり!」だと思った。「はてな」、「年寄り」率、高し!
チラッと、村上春樹に「はまった率」を東と西とで分けて考えると面白いんじゃないか、私の予想では「東高西低」、
上方文化エリアで学生時代を送り、今も生活している私の周りには「ハルキスト」、あるいは「愛好者」はあまりいないんだな。
村上春樹」作品は上方ではそれほど「うけて」いなかったような、
実際、私が読んだ、と知ると、本も借りずにその内容「だけ」教えてくれ、と言ってきた男もいて、
「流行りモン」はとにかく押さえておきたい、自分が読む気なんか全くない、これが本物の「ニヒリスト」ですぜ、お嬢さん、(なんのこっちゃ)
で、けちな私は「人がセックスして死ぬ話」と教えて、「なんじゃそりゃー!」の仲間を増やしたのであった、、、
「アンチ村上春樹」の話と言うよりは、単なる年寄りの思い出話に終わってしまったなあ。
要するに、私には村上春樹って「商業臭」のする人で、今回の「なんとか」賞、受賞も、「お金」臭い、
そういうものを喜んだり、何かを期待したりするのは、ちょっと不思議だな、と考えたのでした。
俗な人間の書くことなんで、見逃してやってください、おしまい。