上野千鶴子さんが男性週刊誌で男性に「おひとり様指南」をしている見出しを読んで、何でもするなあ、と。
このあいだ、三浦展との対談と遙洋子の「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」を読む「一人上野千鶴子祭り」をして
なんで私が上野さんが好きなのかよくわかった。
この人はいい意味で「下世話」なんだな、「下世話」にいい意味があるのか、と言われたら、「下情に通じている」と言い換えておくか。
三浦展との対談なんて、なんでまた、と思ったが、下世話感で一致するものが、、、って、
三浦展の下世話は許せなくても上野さんの下世話は許せるのは何故?と、われながら思ったが、そのうちいいわけを思いつくことにしておこう。
「女」の「下世話」は許せても「男」の「下世話」は許せん!と、そう言う「ジェンダーバイアス」なるものなのかしら、、、、
三浦展の場合、その「下世話」度に「油臭さ」を感じるんだな、「おっさん」臭さ、と言うか。
高校生くらいの時に、私は小倉千加子さんと上野千鶴子さんの書いたものを読むのが好きで、
朝日ジャーナルや新聞で名前があったら拾い読んでいて、それが今や小倉千加子さんはもう別の世界へと行ってしまった気がするし、
なんだか「書くのがうまい人ってそんなところもあるな」とか思ったり。(注;小倉千加子さんのこと)
上手に世相の一部を切り取れていてもそれが真実とは限らない、の意識があるか、ないか、小倉さんの場合、その辺が弱かったような。
「ザ・フェミニズム」ですっかり弱ってしまった小倉さんを読んで、何となく気の毒に思った。
上野さんぐらいじゃないのかな、昔と変わらず爆走し続けている人って。
小倉さんは自分が講師を務めた女性講座なんかでフェミニズムに目覚めて家庭を捨てた元主婦たちが今幸せではないらしいことを
気に病んでいて、真面目だなあ、と感心した。
そこまで自分の発言に責任を持つべきかどうか、フェミニズムに啓発されたから離婚して家庭をなくした、と言うのは「いいわけ」だと思うんだよな。
フェミニズムでなくても何かに出会って、捨てる人は家庭を捨てただろうからな、
「きっかけ」が何であったかなんてどうでもいいことだ、それに責任は持てない、と、上野さんは考えるタイプな気がする。私はそう言う人が好きだ。
遙洋子の「東大で〜」は意外に面白かった。遥さんもやはり「真面目」だよなあ、が読み終えての感想。
印象に残ったのが「ゼミにおばーちゃん現る」で「人生を棒に振った」と「61」歳の「おばーちゃん」の言ったこと。
今時、61ぐらいで「おばーちゃん」に「見える」とはすさまじい「ふけ方」だと遥さんは同情的で、その人に注ぐまなざしも優しい。
ただ、私は「もっと早くにフェミニズムに出会っていたら人生を棒に振らずに済んだのに」の一言に、
そこまで「フェミニズム」に依存しようとする人がいるのだな、その辺がこわいな、と思った。
何に出会ったところで、私はそれまでの人生を全否定するようなことを言い出すかな、うーむ、あまり考えつかない。
ジェンダー関係はまた他も読むことにして、
今は、阿部彩 「子供の貧困」(岩波新書)、速水俊彦 「他人を見下す若者たち」(講談社現代新書)を読んでいる。
今年は出来る限り読書感想を残そう、と言うことで。