「デジタルネイティブ」の「親」が思うこと。

昨日、NHKスペシャルデジタルネイティブ〜次代を変える若者たち〜」を見た。
番組の中盤、「はてな」の社長近藤氏が「デジタルネイティブ」として紹介され、「はてな」も好意的に紹介されていた。
ネットになじみのない人にもわかりやすい内容だったと思う。
私の12歳と15歳の子どもたちもまた「デジタルネイティブ」である。
それだけに「ネット」がもう「言葉だけ」の世界ではないことを親の私は痛感している、ネットはもう「仮想空間」ではなく「現実世界の一部」だ。
今、すでに子どもたちの間ではネットが「いじめ」の道具として使われはじめ、すさまじい勢いで広がりつつある。
いじめの延長にあるネットでのトラブルが原因で自殺した子どもがいたことも見過ごせない事実だ、
これは被害者が「デジタルネイティブ」であったことに周りが早くに気がつけなかった悲劇のひとつではないだろうか。
デジタルネイティブ」にとって「言葉」は「行動」であり、「死ね」と何度も書かれるのは実際に首を絞められるのと同じだ。
これを「現実」と「仮想」空間がごっちゃになっているなどと眉をひそめる人はもう古い、
子どもたちがそのような「感覚」を培っているのはある意味、当然の「進化」だ、私はこの「進化」を受け入れるべきだと考えている。
親世代が子どもたちに作ってきた「現実」が荒涼たる世界なのは否定できない、
サブプライムローンの余波が卒業間近の学生の内定にまで及ぶ、現実世界の過酷な「つながり」しか見えない時代に
「ネット」が現実世界の一部と承認されるのは絶望、希望相半ばする彼らが生きのびるための知恵だ。
私はこの世界に子どもたちを送り出した人間として「デジタルネイティブ」がネットでよりよくすごさせるために何が出来るか、ずっと考えている。
ネットで「凶器」と化した「言葉」に耐性を持たせることもとりあえずの対処策として有効だろうが、
ネットではっきりと自分の意見を述べること、嫌なことは嫌だと言える「自由」が必ずある、と、
他人と感覚が違うことを示すことをおそれるな、も教えておきたい。
ネットでの「言葉」がどれほど恐ろしいものか、その感覚は決して「被害者意識が強い」せいではないはずだ、
例えば現在でも自分の日記に子どもが出来たことを書くのがこわかった、と書く人もいる、
ネットでは親であることが非難の対象になることも珍しくない、そうされるのもまた「自己責任」として「承認」されている。
しかし、それは本当に「正しい」のか、親は一部の人間の「幻想」に準じてしか発言してはいけないものなのか、
私は「違う」と信じている。
「こわかった」と正直に書いた人に私はすがすがしい健やかさを感じた。
そしてその言葉は無意識であってもネット一部で行われているいわゆる「議論」と称するものへの痛烈な批判、と受け取った。
今でもネットの言葉をおそれる人は少なくないはずだ、「はてな」が「ネガ」なブクマコメント対策を考えているのも当然の流れだろう。
ただ、どれほどシステムを変えたとしても「嫌がらせ」はなくならない、「嫌がらせ」をしている人間たちがそう書いているのだから間違いない。
実際、自分たちとは別な感覚でコメントする人間の発言を「バカ」呼ばわりして「恥をかいているのがわからない」だとか
わざわざ、他人のコメントを「いつもの発言過ぎて笑える」と書く人もいるのだから
デジタルネイティブ」ではない、ネットが特別な世界であった頃からの「選民意識」を持つ旧世代たちの行動の醜悪なことはこの上ない。
言葉が「凶器」であることを本当は意識しながら知らないふりをして書き続ける、この行動こそを「恥知らず」というのだと
私は「デジタルネイティブ」に示しておきたいと思っている。
デジタルネイティブ」の子どもを持つ旧世代の親である私が、今のこの「過渡期」をどのように受け止めているかしばらく書いていこうと思う。
以前書いた日記も参考にあげておく。(http://d.hatena.ne.jp/chazuke/20080605
追記;醜悪な行動の一部としてリンク先をひとつ。
http://c.2ch.net/test/-/net/1226137775/n
やれやれ、いつものメンツとちょっとやり合うと「シメ」はいつもこれだよ、「恥知らず」ってどんな意味だっけ?