雑談。

昨夜、ネットでは安倍首相夫人アッキーの服装が話題になっていたが、

ここはてなでもまるで小姑のようなご意見が多数。

「五つ紋の色留袖」なあ、、、

そもそも今の着物は十二単の時代には下着でしかなかったわけだから、

庶民が何を着たとしてもどうと言う事はない気がする。

「着物の作法が、礼装が」といったところで、着物の歴史を見て、

また皇族方が何を着ているか見れば「五つ紋の色留袖」もしょぼ臭い。

もし、庶民なりの最礼装となれば本当は「黒」になるだろうし。

ただ「黒」は皇室には嫌われる色らしい。

このあたり、今の着物の歴史と大きくかかわる武士の考え方とは違う。

雅な世界はわからぬものよ、、、でも一億総小姑になるのね。

アッキーの服装は前から妙で、いくらでもお金のある奥様にありがちな悪趣味さは

別に罪ではないんで、そんなに責めなくてもな。

ただ、やはり50過ぎたおばはんはひざを出しちゃ、いかんよ、

礼装以前に、その気がつかなさが問題かも。

たいていの人間は男であれ、女であれ半世紀生きた人間の生足は見たくないものよ。

色留袖と言えば、30年近く前から流行りはじめた代物のように私は記憶する。

たぶん、海外駐在員の奥様方が欲しがるお着物であったような。

「25ans」なんかでよく見かけたざんすよ、

そのレベルのものがいまや庶民の最礼装になるとは、なかなか感慨深い。

「某茶道界の主」のような私のお茶の先生はこの色留袖は気に食わなかったな、

「あれは勘違いしています!」と、

色留袖は上半身に柄がなく、たとえばテーブル着席のパーティなどでは

紋がついても「色無地」に見える。

「色無地」も紋が入れば一応礼装格になるらしいが、やはり華やかさに欠ける。

「他人様に招かれた席で過剰に慎ましやかを装うのは招かれた意味がない」と、

「柄で場に華を添えるのが礼装と言うもの」となかなか手厳しかった。

たぶんこれは関西風の考え方じゃないかな、関東とは違う気がする。

海外から招かれた賓客の美しかったことを思えば、

地味目をこれ見よがしにするよりは、アッキーは上半身だけは合格だったかも。

礼装は難しいものやね。

日常。

吾妻ひでおが亡くなって、「献血ポスターのこの時期に」の声を見て

あー、確かに、吾妻ひでおの可愛い絵ならば問題にならなかったかもな、

でも、たぶん今の人には古いんじゃないのかな?

元祖「萌え絵」かもしれないが、今の人の「萌え」に合うのかどうか。

この件は、多くの若い男子の血がほしい、には良いのかと思いつつ、

でも若い女の子があの絵の前で献血できるかと言えば、微妙かな。

上の娘は若い女の子には珍しく貧血がないので

いつ行っても「ビップ」待遇だとか。

やはり若い新鮮な血のほうが貴重だそうざんすよ、奥さん、(誰?)

故に若い男の子も献血に来て欲しいは死活問題なんだろう。

これはあとで紙屋氏のブログを読むことにする。

吾妻ひでおのマンガで私が最も印象深いのは「失踪日記」だが、

これは良くも悪くも私に強く心に残る、

「腐ったりんごは暖かい」のような鋭敏な感覚、表現、

ここにかつてぐっときたが、父親のアル中に振り回されたあとで読むと

「なーにをいっとるんじゃー!」になってしまったので、なんとも苦い。

それ以外の記憶を手繰ると、私は「オリンポスのポロン」という

当時「プリンセス」と言う女の子マンガ雑誌で描いていた作品が好きだったな、

一応ギリシャ神話の「アポロンの娘」の設定で、

この父のアポロンが結構なろくでなしであったわ。

思い返すとやはり複雑な思い出にもなるな。

そのうちまた作品を読み返そう。おわり。

訃報。

吾妻ひでお氏、食道がんで亡くなる。

この方の「失踪日記」は名作ではあるものの、

私は父親のアルコール依存に振り回されたあと読めなくなった。

依存症患者の家族としてはやりきれない作品だが、

作品としては名品に思う。

確か最近ヨーロッパのどこかでしょうをもらったんじゃなかったかな?

まだ60代。若い。

ハイスペックバリキャリとは、

「自称」しかいないんじゃないか、とはてなを見るたび思ったり。

「ハイスペック」と言うか「フルスペック」な人はあまり自称しないのだよな、

いつも「上には上が」の意識しかない。

だから「自称」が言いたい放題なんだろう。

ある種の世界で「仕事が忙しくてー」なんてのは

「私は要領も頭も悪いです!」宣言でしかなくて、本当に忙しくても何も言わない。

それが「プライド」と言うものなのだよね。

社会人5年目の上の娘に「バリキャリ」なんていったら、めっちゃ怒る、

「それは馬鹿にしている言葉です!」だそうで、

下の娘が「リケジョ」と言われたらめちゃ怒るのと同じだ。

しかしそれは結局「本物」だからで

世の中には「なんちゃってバリキャリ」「なんちゃってリケジョ」が存在し、

「バリキャリ」「リケジョ」を自称して大喜びする、

その痛い存在を「バリキャリ」「リケジョ」の代表のように思われる迷惑さを

どう伝えたらよいものか、

少なくともハイスペの世界に所属したなら、

「慶○卒」なんてその世界では最底辺にしかならない、

故に謙虚になるはずが、何でそうならない人がいるのか、

私には理解できないわ。

下の娘の就職先では事務系の採用者の最底辺学歴が早慶だったと言う現実に

考えさせられるものがあった。

「それは環境とか情報とか総合政策とか学部ですか?」と聞くと、

「文とか法、経です」だそうで、

その他の私立大学は見当たらなかった、ほかは国立だった、と、

社会って、「自称バリキャリ」ではどうにもならない、

そういう世界だとしみじみ。

彼女は何故そんなに「自分はバリキャリ」妄想にとらわれているんですかね?

出来の悪さはレッテル張りでも払拭されまいに。

少数派をより誤解させるような言説はゴミ屑以上に害悪だ。おわり。

自称「パワーカップル」ほど、

痛い存在はないな。

人生の敗者に甘いはてなでだけ、

ぬるく「ハイスペ・バリキャリ」と受け止められる元外資系女史は

自分がなれなかったものを存在しないと断言するが

彼女がそうではなかったからと言って

パワーカップルは存在しない!」は根拠がないだろう。

 そもそも「元」がつく外資系女史は

「ハイスペ」でも「バリキャリ」でもないのだから、

パワーカップル」だったかのように自身を飾るのは相当無理がある。

彼女が私にでもわかるようにネットでひけらかす外資系企業名は確かに華々しいが、

どちらも3年以上勤務していない、つまり「契約更新」していない彼女は

ただの「元会社員」でしかなく、かつての結婚相手の帯同者として海外に出た時点で

もう「パワーカップル」と自称できる存在ではなかっただろう。

彼女は「私がハイスペ・バリキャリじゃなければ!」結婚生活は

破綻しなかったかのようにミスリードするが、

いつまでも自分の頭の悪さに気がつかない点に元夫氏が辟易としたんじゃないのか、

就職して数年で定例であったとしても海外勤務を経験させてもらえる元夫氏のほうが

彼女よりよほど優秀だっただろうに、

それを「バリキャリの私が仕事を辞めてついてきてあげた!」

のように振舞ったとしたら、愛なんて簡単にさめる、

彼女の結婚の破綻は、その愚かしさが原因ではなかったか、と私は推測している。

彼女の場合、自分が「ハイスペックなバリキャリ」では「ない」ことを認めないと、

なかなか幸せなパートナーシップは築けないんじゃないか、

彼女は今の相手も自分より「下」だと見下しているようで

その根拠は「私のほうが稼いでいるから!」らしいが

 私の娘の周囲には女性のほうが収入が多いなんてカップル、普通にいるんで、

それを「下方」だ、「癒し」だと彼女のようには騒ぎ立ててない。

婚姻継続に必要なのはお互いをきちんと認め合っていることだけだと

知っているのだろう。

結婚は「対等」でなければ成り立たず、

どちらかが「自分より相手は下だ」と考えていれば、いつか関係は破綻する。

彼女の元夫氏が「結局癒し系を選んだ!」かどうかは私にはわからないが、

もう少し自分も相手もどういう人間か理解できる程度に聡明になったんじゃないか、

それを「私は結局ハイスペバリキャリだったから!」と

はてなのような自分にとことん甘い有象無象の多いところで主張するのは

あまりにも痛い、結局、今も元夫氏に未練たらたらなのか。

彼女が「ハイスペ」であるとすれば

この世にははいて捨てるほど、バリキャリ、ハイスペが存在することになるが、

ハイスペの世界はそんなに甘くない、

それなりの就職先で仕事が続けられなかった時点で、

自分はバリキャリでもハイスペでもなかった、の自覚が何故持てないのか、

そこがたぶん親の財力で学歴を手に入れてもらった子供の限界かもしれない。

親が力技で手に入れた経歴を社会に出てたった数年で台無しにする子供たちが存在して

親のコネで素晴らしい会社に入ってもすぐ辞めてしまう、

いつの間にか親に援助されて何が専門だかわからない「フリーランサー!」を

かっこよく名乗ってたりして、

親がいつまでも根気よくこういう子供の世話をするのは本当に頭が下がる。

話を元に戻せば、パワーカップルは彼女とはかかわりなく存在するし、

ハイスペックバリキャリであるが故に関係が破綻するカップルはほとんどいない。

むしろ「なんちゃってパワーカップル」が自分が「本物ではない」と

気がつかない故に関係が破綻するほうがはるかに多いだろう。

外資女史はその中の一人でしかない。

彼女がなりたくてもなれない本当に「ハイスペックバリキャリ」を

「彼女たちは下方婚をしないから!」のような

ある種の男たちに都合の良く貶めるのはもういい加減やめてもらえないものか。

彼女の他人をそれとなく貶めて自分をよく見せる技法には心底うんざりする。

何故、彼女のブログ記事はさほどブクマがつかないときからトップページに載るのか、

それで彼女がいったいいくら稼いでいるのか、

ネットで「私はハイスペックバリキャリ!」「男を養える!!」宣言をしているからは

週100万くらいは手取りでもらってるんでしょうな、

ライター、マーケターって儲かるようやね。(棒読み)

はあ○ゅう女史はそれくらい稼ぐパワーカップルのように思うが、

外資女史には「いない」存在なのかもね。おわり。

 

雑談。

数年前、東京近郊で通勤に便利として薦められた沿線が何故か「東急」で

特に若い人向けの街と上げられたのが「武蔵小杉」「二子玉川」「溝の口」、

溝の口」はまた別として、武蔵小杉と二子玉川は似た感じの町だった。

「readymade」で語弊があるなら「wellmade」と言い換えるべきか、

誰かの設定どおりの街、の印象だったのだよな、

「大体これくらいの年収でこれくらいの学歴でこれくらいのものが買える」層、

で、併設されたショッピングセンターも置くものが限られている。

そもそも入るブランドが「ケ○ト・スペード」あたりが「ちょっとした贅沢」で

のびしろがほぼ決められている感が私には不快だった。

何年も前に兄が家探しをしたとき世田谷区を勧められ

そのとき兄が言ったのが

「誰もが同じ年収、同じ学歴、同じ経歴、うん○まで同じ形になりそう」と、

さすがわが兄弟、同じ感触を持つ。

結局、兄は都心部億ションわらしべ長者的に手に入れ、

私も都心部の賃貸をアクロバティックに手に入れるという荒業を披露したわけで、

考えてみれば、たぶん私たちはそこまで均質的な良い環境になれていない。

武蔵小杉のマンション群はこんなことになるまではとてもよく出来た住環境で、

めったにない災害に襲われなければ、問題点は露呈しなかった。

そして今でもとても出来のよい街だと思うのだよね、多くの人にとっては。

でも私のような、雑多な町で生まれ育った人間には、

その画一的な町のつくりが収容所に見える。

本来横に広がるべきところが縦に広がった程度のことなんだけれど、

多くの人間を新しく収容するのに、用意されているものがあまりに均質すぎる。

有象無象がかの町をなんとなく気に入らないのは、そういう点ではないか。

「柄が悪くて好き」と言う素晴らしい言葉をネットに見つけたので

ああ、そうそう、そういうところ、

「柄が悪いからダメ」ではなくて、そういう点も「町の個性」として残して欲しい、

こういうのが東京近郊には少ない気がするが、どうなんだろうね?

と言って、その町がある川崎市は広くてなかなか個性的な町に思うが、

何故、川崎なのに川崎ではない、的な価値観を持ちたがる人がいるのかね?

このあたり、底辺育ちの私にはよくわからない。

うちの娘も大学時代に「私の住んでいるところはほぼ横浜だから」と主張されて

よく理解できなかった。今でも理解していないよう。まあ、必要ないしね。

東京方面の街の成り立ちは、まず「箱ありき」っぽいね。

関西はそこまで「箱作り」に熱心ではない気がするな。

そういうことを感じるネットのの話題でした、終わり。