ネット・「エリート」、、?

電通」の過労死事件について、「エリートとは後がない人だ!」の意見が大いにブクマを集めているのを見て、
そんなに「エリート」は追い詰められやすいものかな?と疑問を。
電通の過労死は気の毒な彼女が奇妙なエリート感覚を持っていたから、と言うよりは、文字通りの「過労」でしかなく、
彼女が「不眠」をわずらった結果だと私は思っている。体力的な問題で「エリートは追い詰められやすい」とは違うんじゃないか、
そういう結論にされると、私には死者に鞭打つレッテル張りに思える。
私は彼女はそんなちっぽけなエリート意識にこだわった人間ではなかったと思いたい。故に、本当に惜しい。
私の娘たちが世間一般でいわゆる「エリート」学歴層に存在し、その属する集団を見ると、
確かに余裕のない「ガツガツ」系学生たちもいるけれど、もっと素で優秀な、見えているものが俗人とは違う学生がいて、
彼らがともに同じ競争の場に立たされて、目の前に吊り下げられたパンを追いかけているのは同じに見えても、
優秀な学生は吊り下げられているパンだけを見ているのではなく、そのパンを吊り下げている人間の手の位置を見ていたりして、
そういう子は誰よりも早くパンを難なく手に入れるのだよね、
たぶん人生においても、並べられたものだけをみているのではなく、その先にあるものがそれを用意した側よりもよく理解できる、
そういう人間には「後がない!」の感覚がない、たぶん「わからない」、
「ここから落ちたらエリートではなくなる!」の感覚は「エリート」が持つものではないんじゃないかな。
私が「後がない!」ガツガツ系自称「エリート」像を読んで思い出したのは、「もてたいと思われたい人」たちのことで、
実際そういう人が本当に「もてる」かといえばそんなことはない、でも「もてていると思わせられたら勝ち」のような感覚を持っている。
「他人」にどう思われるかがもっとも重要で、他人から「求められる」ことの本質がなにかわかっていない、
「優秀」や「もてる」から程遠い人間故に「あとがない」んじゃないか。
私は「優秀さ」とは脆弱なものではないのを知っている。そしてそれが誰もが持ちえるものではないのを知っている。
たぶん後天的にえられる「優秀」とされる感覚は、それが「わかる」ことではないか、
「落ちたら死ぬしかない」と思いつめるほど、優秀な人が、他人の感覚を気にしたのを私はみたことがないのだよなあ。
余裕のない優秀さに意味がないと理解できないのは不幸なことで、「エリート」の定義がおかしくなっているのか、
それとも私が間違っているのか、「あとのない人間」を本当に「エリート」と呼びますかね?
「エリート」とは「病気」ではないのでな。
私の子供世代に「ガツガツ」系はいるけれど、そういう人間はあまり仲間内から「優秀」とは思われていないな。
優秀な人間は自分と同じ肩書きを持つだけで「優秀」とはあまり思わないものなので、難しいわ。
ところで諸事情により明日からしばらくネット日記はお休み。