(うらぶれる)日常。

昨夜、朝日新聞の書評欄を読んでいるとなぜかある相談コーナーに「ピアノの先生に「努力が足りない」と言われ忘れられません」なるものがあって
「いまどき、子供に向かって珍しく厳しい先生だのぉ」などと思ってよく読むと、なんと相談者は「55歳」。
「15歳」の間違いじゃないか、と思わず見直してしまったわ。
「これは私の老眼が進んだせいか」と今朝も確認したがやはり「55歳」、誤植じゃないのかね。
相談の回答は「ハチクロ」で有名な漫画家の「三月のライオン」を読め、だったが、その勧めが正しいか否かよりも、
私は本当のこの相談が誤植じゃなければ、間違いなく「更年期・対症療法」の本を薦めるんだが、
55歳のおばちゃんが、おそらくは年下のピアノ講師に「努力が足りないです」といわれて、忘れられないか?
私なら半世紀以上生きて今なおピアノなんぞに挑戦する気力がある自分に絶対の自信を持っているだろうから
「てへ。ぺろ。ボケ防止の指運動のために通ってまーす、ほめてそだててね。(はぁと)」などと、臆面もなくその場で言ってしまうわ、
やってるだけで十分じゃん、それでもその「努力」をけつの青い若造にほめてもらいたいものかね?
誤植じゃなければ新聞紙上の少子高齢化は目を覆わんばかりのひどさで私だけがこんなあほなものをいまだに読んでいるのか、
これに共感する同世代はいるのか、私だけが異常なのか、今朝からずっと悶々悩んでいる。「15歳」の誤植であって欲しいものよ。
まあ、15歳でピアノをやってるのならば、将来を踏まえて真剣だろうから先生の言うとおりに努力しなはれ、足りないというなら足りないのよ、
が私の意見である。
55歳で「努力が足りないといわれたことが忘れられない」のなら、漢方でも飲んだら?と言うな。
なんだかなあ、と週明けからうらぶれるのであった。