「ディケンジアン」・メモ。

「ディケンジアン」の第1回目をみて、かの「骨董屋」の登場人物もでたので驚いた。
「ピクウィック」も出てたしこの先「ドンビー父子」や「バーナビー・ラッジ」の登場人物まで出るかな。
「ディケンジアン」に関連して、ミステリチャンネルで放映された「二都物語」を録画して冒頭を見ると映像が古い。
調べると1980年代製作。ということは、「二都物語」は30年近く映像化されていないということかな。
私がイングランドにステイしたころ(30年近く前)も、英国人ですらディケンズを読んでいなかった。
ディケンズは英国を代表する作家で、日本人が「紫式部」の名前を知っているのと同様、「名前だけ」は知っている人が多い。
それでも日本人が「源氏物語」をほとんど読んでいないと同様、「ディケンズ」も読まれない。長いからね、彼の作品は。
ディケンズ作品が廃れることへの危機感から「ディケンジアン」は製作されたのかもしれないな。
ディケンズが創作した人物は山ほどいるし、今でもその一人ひとりが妙に面白い。
忘れている人物もいそうなので現在「二都物語」を読み返している。
およそ200年ほど流行感覚のずれている私はかつてこの「いかにも」のメロドラマにまんまと涙したが、
若い私が心を痛めた主人公に今はかけらほども同情できないので、ババアになるとは、なんとも香ばしくなることよ。
感受性って摩滅するのかしらね、「ミス・マネット、母親ともども男運なさ過ぎ」なんて身もふたもない感想を持ったり。
ほぼ主人公のシドニー君にはいらいらする、あまりに太宰的「人間失格」っぷりにそこに座らせて子一時間、説教したくなる。
年をとるって恐ろしい、、、(涙)
読んでいると、若いころの私が顔を出す、お前、ほんま、馬鹿だったな、と若かりしころの自分と連れ立ってディケンズ世界を楽しんでいる。
その記憶がなくとも、十分楽しめる作品群なんだが、知らない人に読ませるには「長すぎる」。
その長さが気にならない程度に面白いものの、表現が当時の読者にあわせてわかりやすくしているがため日本語に翻訳されると、冗長になる。
名作を現在によみがえらせる、忘れられないようにする、いわば古典の「アップデート」は「ディケンジアン」のようなドラマ作りをするしかないのか。
「ミステリ」仕立てのこの作品の出来はミステリ部分の面白さにかかっているが、さて、どうなるか。
私のような日本ではおそらく少数派のディケンジアンには面白いが、一般的にはどうかな?
ちなみに「ディケンジアン」の意味は、「ディケンズファン」あるいは「ディケンズマニア」といったところ。
ディケンズ作品がもっと一般的になるのを望む。