「アホらしやの鐘が鳴る」

と、今朝の朝日新聞斎藤環の書評欄を読んでつぶやく。
精神科医は本業に徹していたほうがいいんじゃないか、というのはネットを見ているとしみじみ思うんだが
要は「捨てる!」という行為は病的だ!という「捨てられない!」の病を患っている人間が目糞鼻糞を笑う的に主張しているしょーもない書評を読んで
イラっとしてしまった私はまた何の病を患っているのやら。「生活を整える!」という病にかかっているのでしょう。
ま、それはともかく、辰巳渚の「捨てる!技術」はいわば「エポックメイキング」なある意味思想書であるので
「宗教じみている!」という斎藤環の指摘には同意する「断捨離」と同格に考えるのはいかがなものか、
「断捨離」は書いている人が変ですよ、去年、青のbeで(確か)書いた人が紹介されていたが、
この年代お決まりの「私はかつて母親の犠牲者だった!」から始まって、今はその母親の意思を無視して母親のものを捨てているという、
いやー、それ、多分、あんたのお母ちゃんがかつてあんたにしたこと以上のひどいことしてるわ、
それをとくとくと新聞で公表してしまえるあんたの「断捨離」ひたすら怖いわ、と私は女性雑誌で紹介される「断捨離ズム」なんてものが
あまりに胡散臭すぎて、信用していなかったが、より信用する気がなくなったわ、捨てていいのはあくまで「自分のもの」ですから。
主婦をやっていて、一番ストレスなのが、場合によっては別人格を有する人間(=家族)のものを、処分しなければいけない場面にも出くわす、ということで、
私の場合、声をかけずに「捨てる!」ということはしないんだが、それでもそうした方がいいんじゃないか、という時もたまにはある。
「捨てる!」ってね、「自分」がすることなんですよ、基本的に。
でもそれを今ひとつ理解できていない、他者と自分との境界が曖昧な、
「かつて私を虐げた母親だけど、私は彼女の生活のために彼女が嫌がっても彼女のものを整理して捨てる!」
と宣言する女性とは私の目にはまともじゃない。
年寄りはものを捨てたがらないから困るのはいい年になっている私にもよくわかるが何かが違う。
「こんなにスッキリ過ごせるでしょ?」って、その生活は「あなたの理想」であって「母親の理想」ではない。
なんか、怖いよ、山下なんとか、と、彼女の薄気味悪さを「捨てる!技術」と一緒にして欲しくないよな、
それくらい、ちゃんと読んで確認できない斎藤環なんかにあれこれ言われたくないよな、と朝っぱらから思ったのでした。
「生活を整える!」は難しいのよ、特に他人(?)のは。それを受け入れる状態にならなければ何を提案しても無駄だしね。
世界の偉人が机を散らかす人だった!といっても、他人から見れば雑然とした机の上でも
それを所有する彼らにはモノの場所が完全に把握出来ていただろう、つまり、彼らの記憶力は他人とは別格であったという、
故に「雑然としてもいいのだー!」ってのは「天才」にだけ許される言い訳なんで、
そんな小学生じみた馬鹿話を読まされてうんざりしたのをここに残すのでした。
斎藤環はアホですな。