「子供嫌い」が嫌いな理由。

てな言い訳がましいタイトルをつけなければ、「子供嫌い」の人が嫌い、とは公言できない恐ろしきネット社会よ。
一見「フラット」(=平等)をきどりながらじつは凄まじく歪んだ世界なのよね、ここは。
昨日、よせばいいのに「子供嫌い」のご主張を面白がって読んで、しみじみ思ったのは、
「子供嫌い」発言とは「自分はレイシストである」を公言しているのと同じなのに、気がつかない人が多いってことで、
「子供がいるだけで身の毛がよだつ!」の「子供」を「中韓」と置き換えるだけで、あら不思議、
ものすごく香ばしいある種の人に似ている、「うるさい」とか「すぐ○○をする」とか、
その「嫌い」な理由も不思議と似通っていたりして、その手の人が苦手な私はやはり嫌悪感が隠せない。
私は「猫」が嫌いだが、少なくとも「猫」は「人間」ではない、同じく一個の生命体であるのは認めるものの。
「犬や猫が嫌いな人と同じ」と言われても、え、「子供」って、犬や猫と同格なの、「人間」じゃないの、とそこに驚いてしまう。
「人間」を「人間」に見ていないのよね、、、
同じく「日本人」でありながら「中国人」「韓国人」を同じ「アジアン」としても見ない、「人間」としても見ていない、
ほとんど「犬」「猫」扱いしている人たちも私は嫌いだ、やはり受け入れることはできそうにもない。
アジアンにしてもいろんな人がいるように、子供にもいろんな子がいる、
でもそこには目を向けず「子供=ウザイ」とひとくくりにする乱暴さは到底、人間のすることではない、と、
意外に「人間」に「理想」を抱いている私は考えてしまうわけよ、
なんなの?この狭さ、「人」を「人」として見られない人をなんで「人」として受け入れなければいけないのか、
でも、これぞ浮世の定め、そういう人でも「人である」は認めなければいけないのよね、、
「人間の多様性」を受け入れることが必要であるように、「子供嫌いの人が嫌い」といってはいけない、という
なんとも窮屈な道徳律に縛られている私は「理解」という手立てをみつけようとするものの、実はそれがない、ということも分かってしまったわ、、
ま、なんにせよ、私も「レイシスト・上等」で「私は「子供嫌い」の人が嫌いです!」と書いておくか。
子供も人間で、子供にもそれぞれ「顔」がある、それは「自称、子供のことを本当に理解している素敵な俺様、アタクシ」にも書いておくか。
「子供は常にかわいそう」も「子供はうるさい」という「妄想」同様、「幻想」。
「子供」という「アイコン」はどこまで都合よく解釈され、利用されていくのか、
今や超がつく少子高齢化社会では、さっぱり見当もつかない。
ところで、私の身内の配偶者は隠そうとしても隠しきれなかった「子供嫌い」で、
10年ほど、否応のない親戚付き合いで、まだ小学生だった私の娘たちをさりげなく無視してきたものの、
娘の一人が成人し、もうひとりも見かけだけは立派な大人に見え始めた今日この頃、
ようやくその存在を発見したかの如く親しげに振舞ってくるものの、娘たちは非常に慇懃にふるまって
万事そつなくやり過ごしていても、子供時代、意味もなく無視されてきたのを忘れていないらしく、
親しみは感じないようだ。
「子供」であっても「人間」だったの、そして「人間」は意味もなく傷つけられた痛みを簡単に忘れたりしない。
「子供」であっても、わかることはある、それが見えない人が、私はやはり嫌いだ。