恵まれている人というのは。

「待つこと」のできる人なんだろうなあ。
「待つ」って結局は「成果」を「待つ」ってことで、必ずそれが「ある!」と信じられるのは、
恵まれて育ったからなんだろう、とネットを見ているといつも思う。
時々、親の出来に文句を言えるのは、相当恵まれた環境にいた証拠だと思うことがあって、
私も子供に恨まれたいものだわ、と最近考えるようになってきた。
ネットで、あらまあ、この人、ボンボンやん、お嬢ちゃんやんってかんじる人、大抵、親に腹でイチモツある人が多いからな。
でも、自分の子供も同じような恵まれた環境で育てられる。
「成果」が現れるのを「待つ」のは「待たない」とは「早い」か「遅い」かの違いであって、
結局は「成果主義」とあんまり変わらないだろうなあ。
教育には残念ながら「待っても無駄」って場面も往々にしてある。
そしてその「待っても無駄」は早めに発見できる方がいい。
世間は、東京の恵まれた地区に住んでいるような家庭ばかりではないんだよね、
むしろ年収200万、300万で子供を育てている家庭の方が地方には圧倒的に多い。
そういう中では「これは待っても無駄」的な障害があったとしても、親が早めに見つけることは、ほとんどない。
もし見つけたとしても、見過ごす、怖くて。
教育にはある程度の速さが求められる場面は絶対的にある。
でも、恵まれている人の声の方が大きくてそれは無視される。
まあ、そのほうが私立とか、中高一貫校とかに子供を逃がすことができる家庭にとっては有利だもの、
何も持っていない連中が知恵をつけるのは困るでしょうなあ。知恵をつけて何を見て何をし始めるかわからないもの。
ま、それはともかく、「ただ待つこと!」を支持する人間って、本当に優雅だよなあ、としみじみ思った。
「なにを待つの?」と問わない人は本当に恵まれてる、うらやましいわぁ。
私は教育は「待つこと」ではなく、「諦めないこと」と「続けること」とは考える。
似ているようで、同じことではないんだよね。
ただ「待つだけ」と言われても何をアホな、としか。
あのアホな公募校長について、「成果主義を振り回した!」とまるで彼が有能な人間であるかのような評価だけど、
本当の成果主義はとっくに彼を見放しているだろうに。
成果主義」もある程度は認めてもいいものだと教えるのも、教育だと思うな。
そうでなければ、アホがアホだと見抜けなくなる。
一方的な価値観だけを教えるのは偏見を植え付けるものだと、一言。