ひさびさ。

に、ネットに帰ってくると、香ばしい斉藤環のネタが。
「全ての母親は毒母」と極論をつぶやくのはどうやら本の宣伝らしい、いやはや本当に「女」は売り物だ。
巧妙に世代限定もしているけど、これは結局は大手を振った「女性蔑視」なのよね、
本当に抑圧された世代の母親は全て毒母かな?私はその世代とつき合うことがあるけど、全員がひどい毒母とは思えないけどね。
年寄り女はどんな乱暴な言葉でも受け入れろ、かな?子供を産んで用済みになった女はみんな死ね、と、いってることが石原慎太郎とそれほどかわりがないかも。
もっとも、石原慎太郎のあの発言も微妙に切り取られた文脈からの抜粋だけどね。
ネタに関連した小川真由美の娘による「ポイズンママ」を柳下毅一郎映画秘宝で取り上げていて、わりと面白く読んだ。
ハリウッドで「毒母」として有名だったジョーン・クロフォードの話と比較しつつ、「それにしても、、」と娘側の依存的性質も指摘していたのが興味深い。
「その依存性も母親によって作り出された!」となると、母娘とも、救われない話だな。
そういえば水村美苗が「ママ、いつ死んでくれるの?」の本の宣伝を「婦人公論」でやっていて、これも「似たもの母娘」の話だった。
強烈な母親に振り回された娘の話らしいけど、私が根本的にわからないのは迷惑ならば何故母親に娘が「ノー!」と言わないかな?ってことで、
私なんぞ、年をとった母親の意向を平気で踏みにじっているわ、「出来ないものはできません」というのは人間に与えられた当然の権利であるのよ、
自分の考えを後回しにして親にずるずるしたがっていると、関係が破綻に向かうのは目に見えているものね。
それがわかっていても、意地になって母親に従い続けるのは、娘側の一種の「ずるさ」でもあるのよね、
「自分はこんなに完全にやっている!」のナルシシズムの一種といえるかもしれない、
「完全には出来ない」と認めることで見えてくる答えを否定するのは、どこかで自分に溺れてもいる気もする。
そういう答えを出すにいたったのは、私もある程度は母の意向に沿おうと努力したことがあるからかな。
その努力はどこかで空回りをし始めるのに気がついてからは、出来ることはやるけど、出来ないことはきっぱりと断る、にしている。
はじめは罪悪感があったけど、案外母親はそれに慣れて、学習していくようだ、人間はどれだけ年をとっても成長するものよ。
わが家では娘たちがほぼ母親の「支配からの、卒業(by 尾崎豊)」を果たしているので、母娘関係はもっぱら、娘である私と実家の母、になる。
中高年娘と老齢母。子どもが乳児、幼児、と成長するにしたがって、親との関係が変わるように、いつまでも親子関係は変化し続けるのよね。
私の親世代は戦争の影響で、早くに親を亡くしているのでその変化を学習していないらしいのが気の毒だ。
親子関係って「全ての母親は毒母」みたいに単純にかたづけられるものではないのにね。
追記・「映画秘宝」7月号で確かめたら「ジョーン」・クロフォードで、よく考えたら「シンディ」・クロフォードはリチャード・ギアの元嫁さんで
年齢が全然ちがうやんけ、と気がついたので、訂正。ちゃんと見てから書きましょう、と反省、トホホ。