日常・メモ。

先日、本屋で山咲千里が表紙の本を見かけて「20歳若く見せるなんて簡単!」などとたいそう痛い紹介文があったりして
明らかに「20歳若い」どころか「30歳若い」を意識した作り込みで、魔除けに「ぷらすてぃっくさーじゃりぃ」とつぶやきたくなる。
いつだったか、藤原紀香がキーウィフルーツのコマーシャルをしているのを見て、「いつまでも若いなあ、この人、いくつくらいに見える?」と
下の娘(当時中学生)にたずねたところ、「ママくらいのオバサンでしょ」「とてもきれいなオバサンだけど、若くはないってわかる」
えぇえぇ、このCMのコンセプトでは、キーウィフルーツを食べるといつまでもこんなに「若い」をやってるんだと思うんだけど、
本当に「若い」子から見えれば「すごく頑張ってるオバサン」でしかない。
年をとるとある種の女は「若く見える」と「きれい」を明らかに混同しているのを哀しみと共に確認して、
「若さ」を失った人間が考える「若さ」とは、それをまだ持つ人間とはまったく違ったものである、などと、わかったような、わからないような。
山咲千里はたしかに50を過ぎても非常に美しい人ではあるものの、もう「若く」はない。
そして特に「若く」見せる必要もないというのにやはり「私って、いつまでも若いでしょ?」をやりたがっているように「見える」、
これはいったい何故なのか、半世紀生きた後、まだいったい何を求めるのか、
山咲千里がギャルメイクを施したところで、本当に若い20代の子と並べてみれば歴然とその違いはわかる。
かつて私の目からは「若い」と見えた藤原紀香が実際に若い娘からは「ただのオバサン」にしか見えないのだから、
彼女が演じる「若さ」とは、山咲千里の同世代にしか通用しない。
つまり、同世代の中で「あなたっていつまでも若いわね」的な、そういう内輪だけで通じる「ノリ」としての「若さ」
若くない女が装う「若さ」とは結局「コスプレ」なのか、「若く見える」あるいは「若く見せる」とは何を意味するのか、
女の「美」とは何か、まで話が飛んでいきそうな、そして私は何が言いたいのか、
たぶん、時々知り合いの50代女性から「私って丸顔だからいつまでも若く見られて困ってしまう」と、いや、丸顔でももう立派な50代にしか見えません、
すみません、もう勘弁してください、とその場で倒れ伏したくなるような脱力感を言葉にしたいんだが、うまくまとまらない。
「私って小柄で丸顔でしょう?「大人」の服が似合わないのよね、、」と、いつまでも似合わないマルチボーダーを着るのは辞めてください、
とは決して言えない、おばはん世界でのオキテの間で何かを叫びたい、でも何が言いたいのか今ひとつわかっていない、
とにかく内輪受け的「若さ」とは本当の「若さ」ではないのですよ、それすらわからなくなってくる年寄り女の劣化ぶりを私は悲しんでいるのでしょう。
一定年齢における「若い」とは「コスプレ」だ、と言うメモを残すのでした。
私に「私って、、、」をやる知り合いの話を別の50代の知り合いに愚痴ったところ、
「あなたが彼女より年下である限り、永遠にやられるわよ」と笑われた。やはりそうか、、、とほほ。