今日の、ムカ。

秋葉原事件が本になって朝日新聞社から出るそうだ。(追記・とっくの昔に出た本でした。)
私はこの事件がどうも一種「聖戦」であったようにネットでは受けとめられているようで、吐き気がする。
加藤智大を英雄視しているような、そういう雰囲気を妄想電波なのかもしれないが、感じとる。
秋葉原事件 加藤智大の軌跡」ってなんじゃ?なんで「秋葉原大虐殺事件」と書かない?
一人の人間が7人もの人間に手をかけたれっきとした「殺人」事件だ、何故「殺人」の言葉をタイトルに入れない?
その奇妙な傲慢さに私は反吐が出る、いかにも「殺人犯だって人間だ」と、まあ、素晴らしいヒューマニストっぷり、
そんなことは当たり前、人間じゃなかったら殺人なんてしない、ましてや不特定多数の人間に暴力をふるうことはない。
なんで「加藤智大」なのかね?なんで犠牲になった若者の、そこまで生きてきた「軌跡」が、
そして本来だったら平穏無事に送れていただろう人生が、顔もそれまで知らなかった人間に絶ちきられなければならなかったのか、語られない?
なんでその犯人ばかりが「特別扱い」されて、犠牲者の「顔」は出てこない?
殺された瞬間から人は「顔」を奪われて「かわいそうな犠牲者」でしかない、
顔をなくした死者の断ち切られた夢や希望は誰も「本」にはしない、何故か、それはいわゆる「学者」にとっては「どーでもいい存在」だからだ。
私は、惨劇の場に居合わせて、たいていの人間ならば足がすくんで動けなくなっただろうのに、さされて倒れた人に駆け寄る勇気のあったアルバイトの女子学生が
犠牲者を助けようとしたばかりに何度も刺されて死んだ事実を忘れない。
また、友達と遊びに来て事件に巻き込まれた学生の父親が
「こんな早くになくなるのなら、子どものころにもっと遊んでやれば良かった」とつぶやいたことも忘れない。
どれほど膨大な数の人間が傷ついたのか、「だからこそ、検証が必要だ」とは、ステキなタテマエだ。
「検証」なんて、結局は「犯人側の立場」を語ることでしかない。
その本がどんな構成になっているか、そのこと自体を批判する気はない、
でも、「秋葉原事件」と「殺人」を抜かしたタイトルには反発する、
それこそが、どこか人の傷みを薄くそぐ、「他人事」に見ている証拠ではないか、と、
結局「男」が大量に人を殺しても、それほど「罪深くはない」と言うことか。
自分の子ども二人を放置して死なせた女のことはきっとこの著者に用はないのだろう。
そういう「感覚」に向かっ腹が立つ。そういう「社会」にも本当に腹が立つ。