雑談。

広島の給食ニュースから、ふとディケンズの小説に出てくる人物を思い出して、ハテ、それが「荒涼館」だったか「リトル・ドリット」だったか、確認したら
「荒涼館」の「ミセス・パーディグル」であった。
「ミセス・パーディグル」とは、自称「大」慈善活動家で、その活動に子どもたちを常に付き添わせる、
そしてその子どもたちに「お小遣い」と称するものを子どもたちの意向を無視して「寄付」させるという恐るべき「活動家」で、
たった1日とはいえ「給食費を削って被災地に」の発想をする広島の教育委員会(かどうかは知らないが)にどこかにているなあ、と思ったのでした。
「被災地がどんな苦労をしているか知ってもらうため」なんてのは「大きなお世話」という気がするし、
「そんなお金を受け取る側は気が重いだろう」のブクマコメントには大いに納得した。
とくにする必要のない「苦労」を教えて、何かいいことあるのか?と考えてしまうわたしは当然「モンペ」扱いだろうとしみじみ自覚するわ、
「それをすることに何か意味があるのかー!」と叫びたくなるような「教育」は、これに始まった事じゃないけれど。
ディケンズはよく慈善活動家の女性を批判して、こういった極端な人物造形をして面白おかしく書いている。
その世相批判は現代の極東のくにとも共通するところがあって、人類の抱える問題は時代を越えるのだなあ、などと、
ディケンズが日本で今、ほとんど読まれていないらしいのが残念だ、これほど面白い100年以上前のベストセラーはないというのに。
ま、フェミニズムの観点からすれば、ディケンズが女性一人称を用いるときの極端にへりくだった記述は鼻につくものだろう、
それでもその時代から考えれば相当鋭いことを言わせていて、こうしなければ疑問は提示できなかった、
ある意味、やはりディケンズは傑物だとわたしは思う。時代を拓いた文筆家なのだよなあ、、
ところで、昨日兄弟から漏れ聞いた採用話を読み返して、補足しなければいけないことに気がついた。
兄の職場での極端な採用事情は「中途採用」に限っていること、弟の方は「即戦力」になる新卒者を求めていること、
雇う側も必死であるのが愚痴話からなんとなくわかる。
選別する側もそれなりに苦労しているのが職探しをする側にもわかればいいのだけれど、永遠に理解し合えない立場なんだろうか?
なんにせよ、私は自分の兄弟には雇ってもらえない、そもそも、そこでは働きたくない、と考えるぐうたらものだ。
需要と供給が一致しない理由ってさまざまだよなあ、、、