滅入る話。

小さな子どものいない葬式はわびしい。
ここ数年、葬式に出席する回数が増えて、多いときは毎月喪服を着ていたりして、知り合いの親が亡くなる年になったということなんだろう。
それでも、なくなった人の子どもがだれも結婚していない、故に孫のいない葬式というのは初めてで、気がつけばここにいる中で最年少なのは44歳の私じゃないか、
こんなにもさびしい気がするのはそのせいか、
葬式といえば不謹慎かもしれないが、あまり会うことのない人と近況について話がひそかに盛り上がったりするものだが
それもなく、わけのわかっていない小さな子どもが走り回っているのを見て和むこともない。
でもこれからこういう葬式は増えていくんだろう、子どもの数が減るというのは、そういうことなんだと実感した。
ぽつりぽつりの話の中で、輝かしい過去と現在があっても未来がない、
人が集まるところでは、過去と現在と未来とがバランスよくなければ、もの悲しいばかりだ。
「昔、こんなことがあった、こんな素晴らしい思い出があった」だけでは、私には何もないのと同じに聞こえてしまう。
この先、その記憶を受け継ぐ誰かがいなければ、死とともにすべてが失われてしまう。
笑ったり、泣いたり、騒がしい葬式に行くことの多い私には、とても疲れる経験だった。
結局、子どもが少なくなるとは、一人の子どもが見送る人間の数が多くなる、ということだ。
重い死を一人の人間がいくつも引き受けざるを得ない。
以前、知り合いから、自分の亡くなった両親のいとこに当たる人が亡くなったから、引き取りに来てほしい、と連絡された話を聞いたことがある。
血縁でいちばん近いのはとっくに結婚している自分しかいなかったらしい。
しかし、会ったこともない、しかも親のいとことなると、「なんで、私が?」でしかなく、おさめてあげる墓があるわけでもなく悩んだすえ、ひきとれない、と断ったそうだ。
連絡をくれた方も一応確認のためだったらしく、とくに責めるようなことも言わず、それきりだった、と
亡くなった人は結婚はしていても子どもはいなかったそうで、自分の兄弟もいない、配偶者にも先立たれた、そういう環境だったらしい。
病院に勤める知人によるとそういう人は最近増えてきているようだ。
そして、元気なときは疎遠になっていた縁者と、なぜか最後の時には連絡を取りたがって亡くなっていく、
死ぬ間際には心境の変化があるのか、自分の血縁にみとってほしいと望むのだと、なんとも切なくなる。
死を看取るとは重い現実だ、「今」しかない、「今」しか見えないでいると、未来はどんどん失われていくものかもしれない、などと、まとまらないが、ふと、感じた。
わたしは「くそばばあ、金よこせ!」と叫ぶような孫であっても、やはりいてほしいなあ、どんなデキの悪い孫であっても、やはり私にはかわいいと思えるだろうしね、
なんて、帰ってきてあんまり滅入ったんで、ぶつぶつつぶやいていると、
娘に「わたしの子どもが、そんな悪い子なわけないじゃない!」とすまして言われた。
そういう存在がありがたい、誰かがいるって、いいな、とあらためて思った。
私はクソ婆になって、ひ孫を相手に喧嘩するまで長生きしよう。