雑談。

はっと気がつけば、もう1週間たってるやんけ、このままではいつのまにか孫の手を引いていたりするかも、なんて。
一度なくした習慣を取り戻すのはたいへんだわー(涙)一定時間、パソコンの前に座ることが出来なくなってる、とほほ。
現在、世間で流行っている(らしい)「断捨離」をやっている。
といって、くだんの本を読んだことはないんだが、たぶんこんな感じなんだろう、
家を建てて10年あまり、引っ越しをやっていた時代と違ってものの整理をするのがどうしても滞ってしまうので、
子どもが一人独立(?)したのをいい機会に生活のあれこれを見直している。
しかし、生活の見直しがなんで「捨てる!」になるのか、まったく人間の営みはまか不思議、
無駄に増やすことが結局は「生きる」と言うことか、ま、人生も折り返しに入ってきたんで、整理しないとね。
この1年ほど、衰えてきた両親の生活を見て来ていろいろ考えさせられることがあって、
たぶん「捨てる」ってある程度若くないと出来なくなる。「捨てる」って体力、気力、ともに必要だものね。
今ですら、捨てることに罪悪感ではない、何者かが私につきまとって、決意を鈍らせる、「衰える」とはそういうことだ。
年をとることの何がいちばんもの悲しいかと言えば、自分が「衰え」すらもまったく認識できなくなることじゃないか、
「気がつく」能力を完全に失う、それを失ったことすらわからなくなるのは、本人にとっては幸せなのかもしれないけれど、
今の私には衝撃でしかなかったりする。
でも、ある種の感覚は驚くほど鋭敏になっていたりして、それはまるで幼児のようで、
昔「絶対剃刀」(だったか?)というマンガで、老女を幼児に置き換えて描いているものがあった気がするが、
あれは良くできていたなあ、と今さらながら感心する。高野文子だったかな?さびしい漫画だったなあ。
どこだったか、老人施設と保育所か幼稚園が一体になっているところがあると読んだことがあって、
それを思いついた人はすごいわ、私も年をとったら、ひ孫のような幼児とともに暮らしたいものだ、なんて、
何のかんの言って、私のめざすところは「孤独死」だったりする、
孤独死」というのは見方を変えれば、最後の最後まで自分の面倒を自分で見られたってことでもあるんだよね、
困るのは「遺体」となった自分の抜け殻が長く発見されないことだろうが、そうならないように何とかこれから考えることにしよう。
と、言うことを以前年下の友人にぶつぶつ話していると、心優しい彼女はギュッと私の手をにぎって
「(私の名前)さんは、絶対、そんなことにはなりません、きっと大勢のお孫さんたちにかこまれて
みんなに惜しまれながら、泣かれながら見送られることになります」と言ってくれた。
そんなに心弱っているように見えたのかな、でもうれしかった。そういう友達がいるのはありがたいことだ。
友達といえば、先日、女性雑誌の上野千鶴子さんの記事をぱらっと立ち読みして、東日本大震災のとき、ご自身は引っ越しをしていて
友人がたくさん来て「一人ではなかった」をやたらと強調していて、なんとなく違和感を持った、
そんなに「一人じゃない」って大事なことかね?「自立」をひたすらに追求してきた人じゃなかったっけ。
一定年齢になると若かりしころのことはなんだったんだ、と思わせることを言い出す人が結構いるな、
それがまた人間の「劣化」か。ちょいとむなしい。私も人のことはいえないが。
今回、年をとるのは怖いってことで。