ろん、せつ、かん、と「言葉が邪魔をする」

なんちゃって。
某所にてのやりとりは「自説」対「他説」かと思いきや、「自論」対「他観」だったようで、まあ、ご本人がそうだとご主張なさるのだからそうなんだろう。
「議論」らしきものは、はじめは「性欲」と暴力性を取り上げ、そのあと「性行為」にうつり、
「性欲」と「性行為」自体は別ものとして考えた方がいいんじゃないのかなあ、と思っていたところ、
「性」に「暴力性」を見出すお仲間と仲良くなって、「この議論、私の勝ち」宣言を出された、みたいな感じか。
結局、何が結論だったか、さっぱりわからなかった。
私が思ったのは、人間の中には性愛も暴力性も、混沌として含まれていると言うこと、
自分の攻撃性を、つか、他者を攻撃することを好む「性向」を性欲、あるいは性、に結びつけ、一般化するのは、少々厚かましいな。
「一般論化するな」が暴力的な封じ込め言説であれば、
「意識しているか、していないか」などと、「あなたは自分のその暴力性に気がついていないだけ」と臭わせることも、
一種の暴力的な封じ込めの言い回し。
いやー、私は
「この非対称、支配 - 被支配関係には当然「ある種の暴力性」がつきまといます。性を巡る嗜虐的な快楽も被虐的な快楽も、そこから生まれます。
相手の意思や欲求を無視してそれを楽しむことは避けるべきですが、雰囲気や性的感覚を高めるスパイスとしてなら、全然ありです
(SMプレイ然り)。
というか、そういった支配 - 被支配の感覚が一切含まれない、それをファンタジーとして楽しまない性的快楽ってあるのかな?と思うくらいです」
のくだりには、ちょっと笑ってしまった。
特に
「そういった支配 - 被支配の感覚が一切含まれない、それをファンタジーとして楽しまない性的快楽ってあるのかな?と思うくらいです」
とやられると、はあ、どうも、すみません、そんなファンタジー、楽しんだことないっす、と頭をかいてしまうなあ。
「あら、こんな素晴らしい悦びも知らないの、お気の毒」と、
あのですね、「縛られるのって、気持ちいいのよ、そんなことも知らないの」とやられても、
「いや、そこまで性の奥義を究めたいとは思っていませんので、すみません」としか返しようがない。
まあ、そのように上から目線でやられたからは、
「ごめんなさいね、あなたと違って体の感度がいいので、そこまでしなくても十分悦びを感じていますのよ」と、負け惜しんでおくかな。
なんか不毛だよなあ、、、
ふと、私が思ったのは、自分が「産む」性であることを強く意識する女性と、そうではない女性とでは、大きく「性」の受け取り方が違うんじゃないか、
私自身は、非常に若いときから子供を産みたい意思を持ち、実際子どもを産んでいる人間で、
子供を産むためのからだとして、自分の肉体を大切に思ってきた。
故に暴力的な性欲や、性行為その他、そういうものを楽しんだり、受け付けたりは出来ない人間だ、
それは「いびつ」と呼ばれるのかもしれないが、その感覚を今までも大事にしてきたし、この先もそうだと思う。
ただ、その感覚を他の女性に強制することはない、自分の子どもに対してでも、だ。
性に暴力性があると主張する方は、それを「論」として、私のような人間でも「必ずそうだ」とされているところに不快感を感じさせる、
それは「子供を産むのが女の「さが」だ」と、ある種の女性が主張することに似ているように思う。
と、メモ程度に書いておこう。
言葉の解釈云々に対しては時間もないんで、する気はない。春休みは忙しいわ、、