雑記。

先日亡くなったやまだ紫の「しんきらり」をダーリンが買ってきたので、ぱらぱらと読む。
あー、なんか昔懐かしい感じだ、何でか私は「落合恵子」とか「クロワッサン」をイメージする。そういう「時代」の気配。
80年代の「ガロ」で掲載かー、こういうものを乗せていたんだな、「ガロ」って。
今、中村うさぎさんを読んでいるせいなのか、私より上の世代の女性は「虚無」と戦ってきたんだよなあ、なんて思う。
「虚無」を埋めるための「仕事」「結婚」「子育て」と、「虚無」は埋めるためにある、克服するために生きている、
そういう感覚で、時にほとんど滑稽にも見えるほどがむしゃらに戦って、
で、その「虚無」に勝てたかと言えば、相変わらず「虚無」は「虚無」のまんま、だって「虚無」ってそういうものだもの。
「虚無」は埋めるためにあるモンじゃないんだよ、「つきあう」ためにある、といつの間にか私は思うようになった。
いや、「いつの間にか」ではないなあ、あれは初めて一人で海外に出たときのことだ。
私は一生こういう暗くて深いものを持って生きていくんだなあ、
結局、人間は一人で生きて、一人で死ぬ、ならば一生のうち、ほんの瞬間であっても、物理的に一人じゃない方がいいよな、
と、22歳の私、英国にて羊に追われ木に登ってやり過ごしたとき、考える。
「羊に食われる」なんて話は聞いたことはないけど、その第1号が私だとイヤだ、と、群になった羊に取り囲まれるのはこわいのよ。
ま、それはともかく、「人間は一人」なんて考えながらあちらこちら放浪(?)して、「やっぱり結婚しよう」なんて決めるんだから若いって痛い。
こんな「虚無」を持ったまんまで、他人と暮らすような無謀を冒してよいものかどうか迷っていたのが、
「虚無」は特に克服しなくてもいいんだと、埋められないものは埋めないまま、抱えていく、埋められないものがあってもいいんじゃないか、
どのみち埋められないんだから、その中にいろんなもの、都合も悪いもの、ぽいぽい放り込んじゃえ、とか、
「虚無」を不真面目に扱うずるさを、上の世代の「虚無」との格闘を見て、身につけたんだなあ、
と、「しんきらり」独特の「私は何をしても満たされない思いを抱えています」を読んで、思う。
結局、私は「自己実現」って言葉が嫌いなのよね、「自己」なんて「実現」してなんになるの?
その言葉で「あがく」、その「あがく」ことにどこかで陶酔している上の世代を「醜い」と思ったから、私はそう思うようになったんだろう。
「あがき」を「醜い」と思うほど私は若かったんだな。
しかし、ダーリンは、どうしてこの手の女性作家の作品が好きなんだろう、不思議だ。
一緒に買ってきた、桜玉吉の4コマ漫玉日記(「酸」と「アルカリ」だってよ)の方に私は共感するな、私は脳みそが「おっさん」なのか。
他に買ってきたのは「のだめ」の最終巻と「よつばと」、諸々、子どもたちがよろこんで読んでる。
ああ、「おたく」家庭、うちの子たちは「おたく」としてエリート教育を受けているな、などと思う家庭。平和です。