子どもたちの記録。

現在中2の下の子がやっているZ会の作文講座は、対立する意見のどちらを支持するか、が主題となっている。
「A君 給食は温かいものが食べられるからいいよね」に対して、
「Bさん やはりお弁当の方が家族の心がこもっていておいしいわ」
と、このことに関して、下の子は
Z会に出す作文では、私はA君支持だけど、実際に、もしこんなことがあったとしたら、私はA君支持は出来ないと思う。
だって、絶対、Bさんは「あの子はA君が好きだから、A君の味方になった」って言うもの。」
真面目に言う下の子に、つい笑ってしまって「あら、じゃあ、Bさんの方についても、A君はなんにも言わないの?」に、「A君は言わない」と、きっぱり。
下の子がちゃっかりしてんな、と思うのは、この素晴らしき社会的判断、その後に現れる人間関係の「力学」を考慮して、意見を選ぶという、
いやー、君はこの先も要領よく世間を渡っていけそうだわ、とても大事なことよ、その「社会性」、
と、なにも言わない親の私も私だな、と思いつつ、
これが上の子だと、愚直に自分の意見を選ぶ、それはそれですごいことだと、自分の子どもたちに感心する。
同じ親から産まれ、同じ育ち方(?)をしたにもかかわらず、上と下とではことごとく物事に対する反応が違う。
どちらが良くて、どちらが悪いというのではなく、この性格の違いから、歩んでいく人生の選択は違ってくるんだろう、
上の子の場合、自分が「あの子はA君支持だからA君が好きに違いない」の発想を全く持たない、
だから他の子もそうだと「信じ」て、自分の意見を選ぶ、「あの子って、、、」と後から言われて、驚くばかりだ。で、そこそこ社会を「学習」する。
上の子の場合、えらいな、と思うのは、そういう「学習」をしてもなおのこと、自分の意見を変えないこと、
このひたむきな真面目さは傷つきやすいけれど、いつか、確実は「強さ」につながっていく、
その点において私は人とぶつかりがちな上の子を信用している。
一方、「社会性の塊」とその素晴らしき人間観察力に舌を巻く下の子の場合、
一見、他人の意見に翻弄されるんじゃないか、と心配になるんだけれど、
自分の意見をぼやかしても、状況に応じて自分の「スジ」を通しているらしく、これもまた「やり方」だなあ、と、面白い。
「個性」って、中学校時代からだんだんとはっきりしてくるような気がする、
もちろん、もっとちいさいときから「違い」はあったんだけど、ここまで明瞭ではなかった。
姉妹間でも個体差がはっきりしてるんだから、全く赤の他人が全然違う考え、反応を持つのは当然のこと、あらためて、子どもから教わったりして。
ちなみに、「給食VS弁当」は二人共が「給食」支持、だった、「あたたかいものがいいよねー」って、
ふと、私の作る弁当に何か問題がー!って、この発想は「被害妄想」、子どもの成長にどんどん追い越されていく気がする今日この頃。