批判の批判の批判の批判の、、、(エンドレス)

少し前にネットで「似非科学批判批判」「似非科学批判批判批判」と、落語でも聞いているかのような話題が上がっていたけれど、
ふと、何が批判されているのか、双方、全くわかってない、と言う気がした。
問題は「何故似非科学が必要とされてしまうのか」で、それを「似非科学批判」派が理解できない限り、この無駄な論争は終わりそうにない。
その話題を見かけたとき、ちょうど子供が体調を崩していて、子どもたちがもっと小さいときは、熱を出されると、不安だったことを思い出した。
夜中に熱が高くなると、このままどうにかなってしまうんじゃないか、暗い不安が夜にはより深くなり、冷静な判断ができずに極端な親の場合、
救急車を呼ぶまでの事態を引き起こす。その「不安」をなんとか押さえるための「何か」が今の時代失われてしまっていると思う。
根拠のない「まじない」だとか「気休め」だとかを、私たちはもう簡単にうけいれられず、だからほんのり「科学」風味の「似非科学」にはまる。
直接、病院に駆け込まずにすむようなワンクッションとしての「何か」を必要とする「心」を、子供のいる私は笑えない。
その弱さを「似非科学批判」派はあざけるようなことをしているのを時々見かけて、それならば「似非科学」と同じじゃないか、と腹が立つ。
私が「似非科学」を嫌いなのはそれが必ず「脅迫」を含んでいることで、
「こうしなければ、子供がああなる、こうなる」と、私のようにあまのじゃくな人間は、その言葉で「なにを言うとんじゃ、あほんだらぁー!」と
パンチの1発や2発(3発、4発、、ざっと100発ほど)くらわして、「あー、目が覚めた」となってしまえるけれど、
心弱い人はなかなかそういうことが出来ない、ずるずると「脅される」ままにしたがって、やがて引き返せないところまでいく。
そのことにどこかで後ろめたさがあるんだろう、だから他の人間もその「似非科学」に誘って、同じように「脅し」をはじめる。
この「連鎖」を断つためにも「似非科学批判」は必要だ。
しかし、「似非科学批判」を行う人の中には、その弱さをやたらと貶めて自分の優位を見せつける人が存在して
私はそういう人は「似非科学」を押しつける人間と同質だと見なしている。
似非科学を信じるような母親の子供は、、、かっこ笑い」のような、全く「非科学的」な言説を私はいくつか読んだことがある。
あなたがたがやってることは、似非科学「ビジネス」の手法と同じじゃないか、
「子供がかわいそう」なんて、嘘だね、子供を救うのなら、まず母親からだろう、母親を攻撃して何が出来てるつもりなのか、
彼らがやっていることは「似非科学批判」の「ブランド」にしがみついてるだけ、それは「似非科学」よりはるかに酷い。
その「見下し」目線が、「科学」の輝かしさを貶めている、そのことに気がつかない人間は「似非科学批判」など行えないはずだ。
「将来子供がどうなる、こうなる」なんて「予言」めいたことを「似非科学批判者」が行うのは本当に不愉快だ。
似非科学批判批判」に関して、私はそれを全く擁護するものではないけれど、
人の弱さをあざける人間に本当の「科学」の心はわかっていない、と考える。
ただ、「こちらについたほうが「賢そう」に見える」というだけだ、「科学」の本質が全く理解できていない。
「科学」とは本来、人の持つ「不安」と言う心の闇を明るく照らし出す「光」だと私は思う。
「不安」を消すために「発見」されたもので、その「不安」を「非難」するものではなかったはずだ。
子供の「将来」を楯にとられて、ずるずると引きずられてしまう。
その「やさしさ」「弱さ」を受け止める「何か」がなければ今後も似非科学はなくならない。
人が持つ「不安」を受け止める何か、「気休め」を与えるために何が出来るか、
私は「批判、批判、批判、批判、、」とエンドレスに続く「非難」合戦をぬけて考えたい。
唐突だけど、「まともな宗教」ください、ってことかも。「似非科学」は何故か「似非宗教」にも似ているのだから。