「このマン」ばなし。

今回「このマン」を読んでダーリンが買ってきた本の中で良かったのは「深夜食堂」。この人の食事の絵が私にはぐっと来た。
ダーリン曰く、あまり絵の上手な人ではないらしいのだけれど、1巻表紙の「たこウインナ」なんかは「おおっ!」となる。
てらてらと油が食紅でうっすら不気味な色に染まっている、そんな感触を思い出させるんだよな、
添えられたキャベツのみじん切りの「しなっ」と感と共に「食べたーい!」になってしまう。特にうまいわけでもないのもわかってるのに。
食べるものの内容で言えば東海林さだおの「あれが食いたい」みたいなものか、と思うし
1話完結のストーリーはどことなく「大坂ハムレット」風かな、なんとなく「亜流」のうらぶれ感がまた「味わい深い」、みたいな。
食べるものマンガと言えば多分「美味しんぼ」が有名なんだろうが、1〜2冊読んで書かれている食べ物の絵がどれも「ゲロ」みたいで嫌になった。
食べ物の書き方の上手下手、の問題なのか、なんで「美味しんぼ」の食べ物の絵は「ゲロ」に見えるんだろう、
どんなに「このまったり感が」とか「はふはふ」とか書かれても「ゲロじゃん」としか思えなくて、あのマンガが売れてるのが不思議だった。
書き込みすぎてかえって変になってるのかな、「深夜食堂」の食事の絵はシンプルだからかなあ、「あ、サンマ食べたい!」と思っちゃう。
最近マンガ業界も「食育」なのか、そう言えばよしながふみの「きのう何食べた?」も食事の風景が描かれている。
でも私はあの食事を見てうまそうとは思わないんだよな、
何となく「草食動物系の御飯」(って、なんなんだー!と自分つっこみ)とか、「ふーん」で、「あー食べたーい!」にはならない。
同じ「ふみ」でも柴門ふみのエッセイに出てくる食事の方が作りたくなる。
なんでだろう、と前々から不思議に思ってたんだけど、
はた、とコレは「家族に食べさせる食事」が私にとっては「うまそう」に見えるんだと今気がついた。
「家族に食べさせる食事」と「恋人に食べさせる食事」は違うんだよねー、
「恋人に」は「愛」以外の「欲望」がその「食べさせるもの」の中に複雑に混ざり込んでいる。
「家族に」食べさせる食事はもっと純粋で単純な、ただ「一緒に食べよう」それ以外何もない。(少なくとも私には)
深夜食堂」のストーリーを考えればあの食事風景は「家族」の「食事」なんだなあ。
特に凝ったものでもなく、でも何故かふと食べたくなる、そう言う「毎日の食事」が「深夜食堂」にはある気がした。
「深夜」の「食堂」なのになあ。
「家族」と「食べる」、「家族」に「食べさせる」ってものすごく大切なことだ、と最近よく思う。
最近、雇い止めになって住むところさえ失ってしまいそうな人たちには多分、困ったときに支えてくれる「家族」がいない。
せめて今ともに戦っている仲間と「家族」のように何げなく食事をしながら年末を迎えて欲しいと願う。