雑談

「テロ」って言葉がなんで嫌か考えてみると、どこかで「大義!」みたいな、厚かましい、思いこみの深い、自己愛に充ち満ちた、
もう、私がいちばん憎んでいるもの全ての感触がその言葉にあるからなんだろう。
なーにが「テロリズム」じゃ、気どんな、ぼけぇ、ただの八つ当たり殺人じゃないか、テロに大義も何もあったもんじゃねぇ!
と、一般人はみんな思ってるに違いないが、大体「大義」って言葉自体、うさんくさいものな。
自宅を狙って、奥さんまでも手にかける、子どもならば子どもも犠牲にしただろう、なんとも卑劣な犯罪者、
それにしても、日本はこの手の奇妙な犯罪が解決しないことが多くて、昔、朝日新聞社で記者が銃撃された事件もあったけど
あれも結局「時効」になった。まだ20代の若者がこの日本で銃でに撃たれて亡くならないといけなかったのか、未だにわからない、
犯人が捕まらなかったことも。世の中わからないことだらけ。
定期的に疑似科学批判への批判がちらほら、馬鹿馬鹿しいんで「批判の批判」は読まないんだが、
多分「批判の批判」をすることで、自分に理解できないものの存在を無意識に拒否しているんだろう、
「わからない」ことすら「わからない」から逃げている臭いがするな、「知らない」ことを認めるのはそれほど恥ずかしいことではないんだけれど。
知らないからもっと知りたいと思う、何故そうなるのかよく考えてみようとする、そのたゆまない努力、情熱、を失わせないように
うさんくさい「疑似科学」を批判する、その真面目な姿勢を斜に構えて冷笑する、それで「俺ってカコイイ」と他人には「見えるに違いない」、
この想定された観客が本当にいるのかどうか、はて、心当たりがない。
ネットであれこれ拾い読みをしたり、わざわざ残していく検索記録を読んでいると、まあ、いろんな人がいるからなあ。
「批判の批判」をしてしまう人は将来「オレオレ詐欺」にでも引っかかりそうで心配だ。
「私は絶対大丈夫」と思ってる人ほど引っかかるらしいし、なんに対してでも根拠のない自信がもっともこわい。
何が必要で何が必要ではないか、が見極められない人間が「批判の批判」をやっていると私は思う。
それをする心情のそこにあるのは「恐怖」か、と最近気づいたり。
自己愛の底にあるのは「恐怖」と「人間不信」だと考えてみれば納得できる。その説明はまたいずれ。
ところで子どもに「御飯だけ温かい弁当」の感想を聞くと、御飯は温かいがその温かさの「湯気」で容器の中がかなり蒸れている、と
ふーむ、そのようなわなが、、、色々調べていると、ネットでも「御飯だけ温かい保温弁当」には不満も多々。
でも御飯だけでも温かいのはやはり食べやすいそうで、「湯気」処理を考えないといけないなあ、メーカーの努力を待つかな。