日常。

思ったより件の本は面白い。でも、賛成できない、と言うかこれも「感覚」の違いかなあ、と思うような点が2章を終えてちらほら。
私は広がれば広がれば「言語」は単なる「道具」でしかなくなってしまって、言葉そのものが持つ「力」が失われるような、
だから「文学」に用いるのは不適当になるような気がするんだけどな。とりあえず、チラッとメモ。
昨日、少し前にコメントをいただいているのに気がついて返信する。
遅くなってすみません、楽しく(?)はてな名物「揉め事」をやっておりましたのでチェックが甘かったです。
何をやっても脳天気な人間には考えさせられる内容でした。自分が「雑」なつくりなのがしみじみと、、、
昨日いただいたコメントの方のブログも拝見して、翻訳機能はこの先どんどん進化していって欲しいなあ、と
しかし、こんなアホブログでも時々自動翻訳されて読まれていることがあって驚く。
小熊英二さんのことを書いたところが中国語と英語になっていた。最近の自動翻訳機能は少しは良くなってるのかな?
英語は読む、聞く、旅行先で困らない程度に話す、程度は出来るので良かったな、
で、その技能は主に中学生時代に聞いていたNHKラジオ基礎英語シリーズで培われたものだったりする。
言語能力なんてその人の話すことに「内容」があるかどうかで、下手なのに「うまく思わせよう」なんて姑息なテクニックはいらないだろうに。
昨日無茶苦茶ブクマを集めているところをチラッと見て、げげ、と、これは書いている人は「ジョーク」なんだろうし、
この手の言い回しが「役に立つ」と思う人なら英語でつきあう人のレベルも限られるだろうから、心配することもないか。
遙かに役に立つ良エントリを見つけたのでそこはブクマ、本当の良エントリはブクマを1000も集めないんだよね、
これが何を意味するか、ま、私が書くようなことではないな。
どこの国の言葉でもそれを用い、伝えてきた人々の精神が言葉のひとつひとつに宿っている。
私はきれのいい英語の発音も、くぐもった仏語の響きも、柔らかな日本語も、どの国の言葉も好きだ、
それぞれの言葉の微妙な違いがなぜうまれたか、英語を「道具」にして広めあうことは可能だろうか?
そういうことを考える。なんか「亡ぶ」ってピンと来ないんだよな、そこから私は違うんだろうな。
週末はまた子供の「部活」です、、、(涙)