雑談。

先日、ブクマを集めたエントリに「消毒」臭いトラックバックが届いて、
ネットの人間のもっともおそれているものは「現実」なんだとしみじみわかってしまった。
自分の書いているものがあまりにも恥ずかしくなったのか消してしまったのがせめてもの救いで
読ませてもらってその内容の異常さに彼を心から気の毒に思わずにはいられなかった。
まるでワイドショーに出てくる下手な精神科医気取りで、他人の親子関係を「診断」している、
まともな臨床医ならば直接診察したことのない人間に憶測で病名をつけたりしないものだがその「常識」すら知らない、
ネットで拾うこと「だけ」が彼の人生の「全て」なんだろう。
自分の言葉で構築できたものにあわない「事実」や「現実」は決して理解できないらしい。
保存してあるそのエントリの一部を抜粋すれば
>子供は敏感であるから、このような欺瞞的態度にはとうの昔に気がついているであろう。
問題は、それを意識的に認識しているかどうかということである。無意識下に押し込んだ場合には心身症になる危険性がある。
このウソ臭い愛情が偽物であることに気づいて反抗するならば問題は深刻化しないが、
日常生活や親子関係を維持するために抑圧したりすれば、自分についた嘘は回りまわって別の形で噴出するであろう。
その点だけが気掛かりだ。
と、この子どもっぽいナルシシズム全開の文章、何が愛情なのかも知らないのにそれが「ウソ臭い」「偽物」と断じられるとは、哀れだ。
多分、彼にとって、「愛情」とは自分の思い通りに「他人」が動くこと、
彼は「言葉」で人が動くと信じている、やはり彼は「言葉」で操られる人なのだろう、彼の現実生活の寂寥感がにじみ出ているように思った。
現実に立ち向かえない人はネットでこのようごくありふれた人間たちの日常の営みすら「偽善」に見ることしかできない。
そしていつも文体は同じ、「見透かす」「見抜く」、そこにないものを「あった」と言い張る、
どれほど「言葉」を連ねても「真実」はどこにあったか、いずれわかる。ただ、彼の曇った頭と目に「真実」は見えない。
親子の関係など、ネットにつけた日記だけでわかるはずがない、そこまで私の文章はうまいわけではない。
それでも「言葉」だけにとらわれているとこうなってしまうんだろうな、、、何がそうさせるんだろう、私には想像もつかない。
このあいだついたブクマに「言葉(表現)が凶器なのはネット以前からですよ」とあって、言葉は常に「道具」であった、と、
また、ネットもやはり「道具」だと書かれた人がいて、つまりネットの複雑さは「道具」の中で「道具」を用いなければいけない点にもあるのだろう。
その複雑さのために混乱して現実感が麻痺し、ごく普通の人間が破綻しているようにしか見えなくなる、
他人に呪いの言葉を吐いてその言葉が実現するかのように信じ込む。そして相手にも信じ込ませようとする。
これは「宗教勧誘」に似てなくもないな、「俺の言うことを聞かねばこんな悪いことが起こる」と「脅迫」する、
確率以前の「トリック」、その「言葉」が当たらなければ、自分が「助言」したからそのような事態は「未然」に「防げた」、
で、万が一にでも「当たれば」「おれ」は必ず正しい、
近藤氏が先日のテレビで「ネットも現実世界もそれほど変わらない」と言ったように思うが、私の日常にこんな変な人はいないなあ、、
「言葉」について色々考える、先日見た「デジタルネイティブ」たちの共通言語は「英語」だったのが印象的だった。
「英語」「日本語」云々と言えば今、話題の水村見苗「日本語が亡びるとき」をダーリンが買ってきて、私が読んでいる。
大騒ぎなっているのは知っているけど、その詳細を知らないのでうっかり感想文は書けないな。
と言っても書くかも。「言葉」が「問題」なのですなあ、、、