返信。

昨日のコメント欄を読みかえして、うさうららさんのご意見は、私の言葉の用い方に違和感があると、
トラックバックは送られていないものの関連エントリを拝見して改めて私はそのように確認している。
「べきではない」の言葉を用いる「べきではない」が主旨だと受け取る。
うさうららさんの「配慮」という名の言葉をそぎ落とせば私はもう書いてはいけないのだという気にさせられるのは何故だろう、
思ったこと、感じたことを書く「べきではない」と諭されているようだからと私は受け取っている。
昨日のコメント欄でも書いたがうさうららさんの投げかける「疑問」にはうさうららさんの用意した答えしか選ぶ余地がない。
例えば
>もし、考えが変わったなら「あ、そうかなあ、そうかもしれませんね。」と言っていただければいいし、
変わらないならとことん「これ以上は同意できないですね。」とおっしゃればいいのだと思います。

私のその答えはどちらでもなく、うさうららさんのご希望に添えないことには謝ることしかできない。
私はうさうららさんのご意見に「同意」はしても「考えは変わらない」のだ。
うさうららさんは「「べきではない」の言葉を用いる「べきではない」」を「正しい」尺度として私に押し当てられ、
私が「間違っている」と判断されている、どれほど言葉を尽くそうとその意見の本質は変わらない。
「部外者は何も言うな」というのは本当にそうだろう、しかし、それだけでいいのだろうか?
うさうららさんは
「子どものことは常に接する親がもっともよくわかっている、だから親の判断で子どもを連れて行ってもよかったのだ」
と今回の件に関して(だけなのかどうかわからないが)判断されているが私はその意見には違和感がある。
親が信奉する宗教団体など、「子どものことをいちばん知っている」からこそ親は子どもを連れて入信する。
オウム真理教などもそうだったのではなかったか。
もちろん「ケースバイケース」とうさうららさんがおっしゃっているのはよく知っているが
今回の芋掘り騒動の「ケース」はあの怒号と悲鳴の場に子どもをあえて連れて行ったとしたら私はやはり「べきではない」の意見を繰り返す。
実際は反対運動をされている方が、子どもは一人しか畑に立ち寄っていないと発言した記事を昨日読み非常に安心した。
私は反対運動そのものを否定しているわけでもなく、強制執行も不当だと判断しているので、情報が混乱して伝えられるのは気の毒だと思う。
「断定」は「断罪」ではない、私の昨日書いたものに親を断罪するような内容が本当に含まれていたかどうか確認して欲しい。
「断罪」だと「断定」しているのはどちらであったか、
「べきではない」の言葉一点を取り上げる乱暴はどれほど言葉を重ねても私には納得できるものではない。
言葉を扱うのに繊細な才能をお持ちの詩人であるうさうららさんに
私のような無学な人間の言葉の羅列を目にするのは耐え難い苦痛であると本当に申し訳なく思う。
それでも根本的に意見が違い、理解はしても「意思」は変わらないことを、つたないながら返信として書かせていただく。
それにしても、子持ち40女のやりとりは「ねばい」、コメント欄を読み返してつくづく思ったなあ。(わはは)
また時間があれば後日書きます。(予定)今日は模試と錬成会のあれこれですったもんだ、私もよく書けるもんだよな、、