やれやれ、、

昨日は「なんとか小町」の投稿ネタみたいだったな。
多分、いちばんいらだっているのは自分自身に対して。年に数回しか来ない相手に何か言うことをためらう、
と言うか、相手がこちらの気持ちを理解するわけがない、と試しもせずにあきらめていること、
親戚としてつきあって欲しいと思いつつ、自分たちは本当は相手を親戚と思わず「お客様」扱いしていること、
そういうことなんだなあ、、でも、何か言えばもう帰ってこなくなるだろうから、そうなると実家がやはり悲しむ。
それでも私に何か言って欲しいと望むのは実家の両親なんだよな、、何故、「私」なのか。
反発するに決まってるじゃないか、「同性」だよ、年だってそう離れているわけでもない。
それにしても旦那の姪っ子の名前も覚えられないものか、5年以上経っても、「フラワーガール」もした子供達なのにね。
未だに「お子たち」と呼ぶ、私の名前も知らないよ、「お姉さん」と呼んでればすむんだもの。
私も「弟嫁」と呼べたらいいんだけど、もしそう呼んだらどうなるのかな?
「ごめーん、めったにあわないし、名前忘れちゃったぁー!」と明るく言えたら私もこうも煮え煮えしないかな?
「親戚」と思うから「楽しんでいって欲しい」、だから無料で船も出す、大体その「無料」だって、
前もって実家の母があれこれ年中気を遣っていて、弟夫婦が帰ってくるときも必ず手みやげを持ってお願いに行って、
それが全てではないだろうけれど、いつもよくしてくれる「おばさんの」息子の「お嫁さん」だから、と
向こうは思ってくれているのをどれくらい理解しているか、
もし相手を「親戚」ではなく「赤の他人」と認識しているのならせめて「お礼」をするべきじゃないか、それもしない、
相手も「お礼」を求めてしてくれてるんじゃない、でも「何か」が足りない、それに気がつかない、気がつくつもりもない、
そういうところが嫌だな、と、ま、嫁が出来ないのなら、弟がやれよ、と思ってるんだけどね、弟にも「無理」でしょう。
自分の兄弟のことすらあきらめているこの冷酷、そういう自分がいちばん嫌だな、と。
結婚、婚姻って、「契約」、「この家の子供を産みます」って部分もあるのだなあ、と改めて思う、
「あなたの子供を産んであげます」でもいい、
相手や相手の「家」に対する信頼をしめすのにいちばん手っ取り早い原始的な方法が「子供」を作ること、
「家」を存続するための「子供」、それがいいことか悪いことか、私には今も判断できないけれど、
「家」が持つ「資源」を「利用」するものの「義務」的な面もあるだろう、
その「資源(資産?)」は個人が利用するためだけのものではない、それは受け継がせるためのもの、
その家に生まれたと言うだけの「個人」が「消費」しつくして終わらせるものではない、とそういうことなんだろう。
「家」の持つよい部分だけを受け取る「だけ」では駄目で、それをまた「譲り」渡さなければいけない、
「豊かさ」って受け継いだものを「譲る」ことであるのだなあ、と最近ふと。それでもインドの代理出産はやり過ぎだと思うが。
今日は敗戦記念日だったな、私の世代は何が譲れるのかな?
「よきもの」に毒づき、卑小な自分をよりよく見せる「だけ」の「テクニック」しか譲れないとしたら、情けない。
お盆も終わりだ、やれやれ、、、